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最終更新日:2004年03月31日

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表紙 > バックナンバー > 第5号 > 「慰安婦」とは何であったか


「慰安婦」とは何であったか

西野瑠美子


 歴史に語られなかった時代、「従軍慰安婦」という言葉は日本人に馴染みがなかった。「ジュウグンイアンフ?それ中国語?」という会話はけっして珍しいことではなく、かたや、戦記ものには「売春婦」さながらの「慰安婦」が描かれ、戦友会では酒に酔いながらノスタルジックに「疑似恋愛」を語る者やら「慰安所は心の洗濯場だった」などと懐かしがる者すらもいた。90年代に入って金学順さんをはじめとして各国の女性たちが「慰安婦制度」の加害性を告発したことにより戦争責任と責任の取り方が議論されるようになったが、その頃から一部の元軍人の心には微妙な変化が現れた。「あのとき世話になったから何かしてあげるべきだ」と「善意」を示そうとする人々が出てきたのだ。私のところにも、そうした元軍人からの手紙が届いたことがある。しかし私の中には、それに対して素直に受け止められ難い感情があった。「世話になったから」「してあげる」という気持ちは、自らの加害行為に気づいているものではないと思ったからだ。「慰安婦」問題の解決は「責任」を抜きにして語ることはできない。

 中学歴史教科書に「従軍慰安婦」が記述されたことを巡って「新しい歴史教科書をつくる会」やそれに同調する人々は、記述削除に声を荒げてきた。彼らは「自国の誇り」論を持ち出して「慰安婦」問題を事実関係において打ち消そうと奔走するものの、「慰安婦」だった女性たちが語る体験については耳をかそうともしない。女性たちの証言の一部を取り上げ「矛盾がある」などと言ってはその証言の全体を否定、あるいは破壊しようとする。しかし女性たちが語る体験の中にこそ、日本軍「慰安婦」の実像がある。

 金学順さんが声を上げたのをきっかけに、アジア各国から「慰安婦」の被害体験を持つ女性たちが次々に姿を現した。それにより「慰安婦制度」とは何であったのかが鮮明になってきたが、それに比べて加害側の元軍人や軍関係者らの証言はあまりにも乏しい。加害体験どころか元軍人からも「慰安婦は売春婦だったのだから何の問題もない」という発言すら飛び出す始末であった。(日本人「慰安婦」の中には公娼制度下の女性たちの姿もあったが、この論法はそうした女性たちを切り捨てるものであり容認してはならない視点である)

 加害者が姿を現さない日本社会にあって、戦後、一貫して自らの加害体験を語り続けてきた人々がいる。中国帰還者連絡会(以下中帰連)の方たちだ。私は中帰連の方たちと話したり行動を共にする機会を幾度かもってきたが、そのたびに変わらぬ意思の強さに敬服し、多くを学ばせていただいた。「平和のために過去の体験をありのままに語り継ぐことこそが私たちの責任だ」という姿勢には、人はどう生きていくのかという人間としての強い生き様が感じられる。それは戦後生れの私を含めて若い世代にも強烈な感動を与えてきたのではないかと思う。その意思をどう受け継ぐかは、まさに私たち戦後世代に渡された責任である。


筆供自述

 昨今、1956年に中国で行われた日本人戦犯裁判で有罪判決を受けた45人分の供述書(筆供自述)の一部が、入手した新井利男氏により公表された。数年前に私は、撫順戦犯管理所を訪れたことがある。整然とした地下牢や戦犯裁判の貴重なフィルムを見せていただきながら、当時の中国側の対応は日本軍人を人間として扱うものであり、供述書は決して抑圧や強制により無理やり書かせられたものではなかったという中帰連の方たちの話を思い出していた。

 実際、こうした供述書について「あれは刑を軽くしてほしくて書いたもので信憑性が無い」とか「彼らは洗脳されたのだ」などという中傷があるが、中帰連の人々が戦後、一貫して変わらぬ意思で証言を続けていることこそ、供述の真価を証明している。歴史学者の藤原彰氏はこの供述書の資料価値について、1.供述の内容はきわめて具体的で正確であり、他国のBC級戦犯裁判には見られない特徴である。その内容が極めて詳細かつ正確なのは、現在明らかになっている戦闘詳報や戦時月報などの日本軍の他の史料と照合してみても明らかである、2.これらの供述はたんに個々の事件についてではなく、中国戦線における日本軍の戦争犯罪の全体像を浮かび上がらせているという特徴がある。これらは高級幹部自身によって自供されており相互に関連性をもっていることは、戦争責任問題にとってもきわめて有力な史料である、3.この供述書を書いたのが生粋の陸軍軍人であり将軍たちであり、少なからぬ重さを感じる、等の理由を上げてこの史料の価値を評価している。(詳しくは『世界』1998年5月号を参照されたい)

 今回、公表された45名は太原戦犯管理所と撫順戦犯管理所に勾留されていた日本軍人であり、8年から20年という有期刑を受けた人々である。1950年7月に、969名の戦犯容疑者がソ連から中国に引き渡された。すでに中国で逮捕されていた140名と共に撫順と太原の戦犯管理所に収容された彼らは「認罪学習」を続け、供述書を作成した。ほとんどは起訴猶予になった中で、45名だけが起訴された。今回公表されたのは起訴された軍人のものである。

 45名のうち30名は満期前に釈放され、1名は病気のために56年7月に釈放されている。この中に、陸軍第117師団長(中将)であった鈴木啓久(1890年生れ・釈放後82年に死亡)も含まれていた。藤原氏は鈴木供述について「防衛庁の戦史と言葉遣いに違いはあっても、同じ内容を述べている」と、その正確さを評価している。

 鈴木の供述書は、中国人民に対して行った残忍な殺害や略奪が詳細に語られ、1944年11月に林県と濬県東方地区の八路軍を攻撃するため、第87旅団の歩兵3ヶ大隊と第12軍より配属された防疫給水班一ヶ班と騎兵一ヶ連隊を指揮して林県南部地区を攻撃し、撤退するときに防疫給水斑が3、4の部落にコレラ菌を散布したことも述べられている。中国に対しては常徳作戦、寧波作戦、浙かん作戦のときに細菌が使用されたことはすでに調査・研究が進んでいるが、この供述は他の作戦でも細菌が使用されていたことを示唆するものである。鈴木は日本軍が行ったことを多岐に渡り詳細に書き綴っているが、その中に「慰安婦」に関する記述もある。

 1941年、鈴木は少将になり華北の第27師団の歩兵団長になった。巣県で准南鉄道一部の警備に当たっていた頃、鈴木は揚子江北岸の准南線沿線にある巣県に、副官に命じて慰安所を設置させ、中国人と朝鮮人の女性20名を誘拐して「慰安婦」にしたという。

「私ハ巣県二於テ慰安所ヲ設置スルコトヲ副官堀尾少佐ニ命令シテ之レヲ設置セシメ、中国人民及朝鮮人民帰女二〇名ヲ誘拐シテ慰安婦トナサシメマシタ」

 これまでにも慰安所設置は副官が担当していたといわれてきたが、鈴木の供述はそれをさらに裏づけるものである。

 1942年、鈴木は第一連隊から日本軍が通過する村落で八路軍が反撃するところがあるという報告を受けて、連隊長に徹底的に掃蕩することを命じた。そこには凄まじい粛正や略奪が記されるが、このときも鈴木は豊潤や砂河などに慰安所を設置するよう命じた。このときは中国人女性約60名を誘拐して慰安婦にしたという。

 「日本侵略軍ノ蟠居スル所ニハ私ハ各所(豊潤、砂河鎮其他二、三)ニ慰安所ヲ設置スルコトヲ命令シ、中国人民婦女ヲ誘拐シテ慰安婦トナサシメタノデアリマス。其ノ婦女ノ数ハ約六〇名デアリマス」

 さらに1945年4月、歩兵中隊が猛県で八路軍を攻撃していた頃、鈴木は慰安所設置を再び命令し、中国人と朝鮮人女性約60名を誘拐して「慰安婦」にした。

「日本侵略軍ノ蟠居地ニハ、私ハ所謂慰安所ノ設置ヲ命ジ、中国並ニ朝鮮人民ノ婦女ヲ誘拐シテ所謂慰婦トナシタノデアリマシテ、其ノ数ハ約六〇名デアリマス」

 鈴木啓久の供述書は実に詳細に侵略の事実が綴られているが、慰安所の設置について書かれたものとしては大変興味深いものである。

 まず第一に慰安所の設置は軍が組織的に行ったことを明らかにしていること、二つめは「慰安婦」の徴集について「誘拐」という強制連行をもって行われたことが明記されている点である。教科書記述を巡って削除を主張する人々は、「慰安婦」問題を力づくの連行に狭小化して、「強制連行をしろと書いた指令書が出てこないから事実は確認されていない」という持論を操り返してきた。しかしここには軍が組織的に強制連行を行ったことが言明されているのだ。「慰安婦」問題は何も徴集方法だけが問題ではないが、それを前提にした上で、あえて連行上の問題を考えてみたい。


婦女誘拐

 一般に、「慰安婦」の徴集形態はいくつかのパターンをもっている。植民地であった朝鮮や台湾などでは、就業詐欺や甘言による連行が多かった。しかし中国や東南アジアなどの占領地ではカづくの拉致的な連行が特徴的であった。

 占領地での「慰安婦」連行の特徴は、1.日本軍が拉致したケース 2.日本軍がブローカーなどを通じて女性を集めたケース 3.地元の村幹部などに「慰安婦」集めを強要したケースに整理される。(詳しくは『共同研究 日本軍慰安婦』吉見義明・林博史編著参照)鈴木啓久は「誘拐」して集めたというが、これは現在、東京地裁に提訴されている六名の中国人元「慰安婦」の体験でも語られるものだ。(誘拐まがいの連行は、中国以外にもフィリピン、マレーシア、インドネシアでも確認されている)

 李秀梅さんは山西省盂県に生れ育った。満15歳のときのこと、夕方、母と二人で自宅にいたところに四人の日本兵が入ってきて、李さんを引っ張り出そうとした。母親は止めようとしたが日本兵に顔を殴られ、その上纏足だったために追いかけて娘を取り戻すこともできなかった。日本兵は李さんが大声を上げないように口に布を詰め、手首を縛りロバに乗せて進圭村にあった駐屯地に連れていった。こうして李さんは穴洞(ヤオドン−洞穴のような家)に監禁され「慰安婦」にさせられたのだ。

 劉面煥さんが連行されたのは、李さんと同じように両親と自宅にいたときのことだった。突然、三人の日本兵と三人の中国人(漢奸)がやってきて「会議をするから外へ出ろ」と言った。抵抗したが殴られ、後ろ手に両手を縛られた状態で進圭村の駐屯地まで連れていかれたのだ。

 周喜香さんもまた、自宅で縫い物をしていたときに日本兵に連れ出され、両手を縛られてロバで駐屯地に連れていかれた。陳林桃さんは川で洗濯をしていたときに、「会議がある」と呼び出され、日本軍の駐屯地に連れていかれた。

 この四人の徴集形態は、紛れもない拉致(誘拐)による強制連行である。

 これに関して、多少付言したい。昨年、洪祥進氏が発見した1937年の大審院判決は、上海の軍慰安所に女性を「慰安婦」として送り込むために誘拐して移送した事件について、国外移送目的の誘拐罪を認め、実行に当たった人だけでなく計画を立てた人も共同正犯として裁いている。(「第二審は被告人等が婦女を誘拐して上海に移送し醜業に従事させることを謀議した上、被告人A以外の被告人等がその謀議に基づき長崎地方において十数名の婦女を誘拐し、これを上海に移送したる事実を認定し、被告人等をいずれも共同正犯なりと判定し、その行為中誘拐の点に対しては刑法236条第1項、移送の点に対しては同条第2項を各適用し、なお右両行為の間に手段結果の関係あるものと認め、同法54条第1項後段に照らして処断したり」)

 刑法学者の前田朗氏は、大審院判決の意義について「(慰安婦徴集において)誘拐は犯罪と認識していたことが確認される」と指摘している。この場合は国外移送を目的にした誘拐罪(略取・誘拐・売買・移送)が問われた。南方の慰安所に船で移送された女性たちの証言には、誘拐罪=国外移送を目的とした誘拐に当たるケースが確認されている。


強姦所

 元軍人の中には「慰安婦」を「商売の女」と言う者もいるが、その一方で戦後の早い時期に慰安所は「強姦所」であったと認識していた人もいる。撫順戦犯管理所に収容されていた時期、そう供述していた日本兵がいたのだ。

 1941年9月下旬、山東省歴城県西営に駐屯していた部隊の軍曹だったAは、供述書の中で慰安所を「強姦所」といい、その様子を具体的に書き記している。(これは1997年1月に放映された「朝まで生テレビ」において、梶村太一郎氏が提示したものであり、今回公表された45名には含まれない。本人は中帰連の一員であるが、ここでは仮名にさせていただく)

 そこには「慰安婦」を確保し慰安所を設置することを村長に強制したことや、中国人と朝鮮人の2人の女性を拉致したこと、「慰安婦」の食事代100円は村民に支払わせたこと、2人を監禁し隊員15名が1ヵ月間にわたって女性を強姦したこと、「慰安婦」には昼間は洗擢をさせ、ときには酒宴の席に「慰安婦」を連れていき凌辱したこと、中国人女性は性病のため一カ月後に「追い返した」ことなどが記述されている。

 「西営鎮長を呼び出して二名の婦人を拉致し強姦所を設置することを強制し、一〇月一日頃より一箇月間、済南緯八路より中国婦人一名、朝鮮婦人一名、何れも二十歳位を鎮長を通して西営に拉致させ、一ケ月一名一〇〇円食事は村民に支払はせ西営蟠居隊より二〇〇米位離れた中国人家屋に監禁し自由を拘束して中隊員一五名に強姦行為を行はしめ中国婦人は性病があるに拘らず強姦させ、昼間中隊で洗濯四回二時間位酒呑みに二回夜間連行して自由を束縛して酒つぎをさせ辱かしめ中国婦人は性病の侭一箇月後済南に追い帰しました」

 ここでの「慰安婦」集めの方法は前述の徴集形態の2に類するものであり、強姦ばかりか「慰安婦」に兵隊のための洗濯をさせたり酒宴に連れ出したりしているが、これまでにも「慰安婦」にされた女性たちの話には、こうした強制がたびたび出てきた。これらもまた、被占領民の女性に向かった性に基づく暴力であり、自尊心が破壊され恐怖のどん底の一体験として、深く心の傷(トラウマ)になっている。

 提訴中の中国人元「慰安婦」の女性たちは、ひどいトラウマ後のストレス障害(PTSD)に苦しんでいる。彼女たちが心に受けた傷は強姦の恐怖体験は言うまでもなく、それ以外の体験にもよるものだ。例えばある女性は、日本兵らが立ち並ぶ前で踊らされた体験を大きなトラウマとして抱えている。彼女は多くの軍人による強姦の結果、体が腫れて動けないほどであったが、軍人はそんな彼女を維持会に連れていき、軍人が取り囲む中で鼻や耳を引っ張り「踊れ!」と強要したのだ。彼女はあまりの屈辱感で顔を布で隠したが、それもはぎ取られた。回りには武器を身につけている軍人が居並び、とても拒絶したり逃げ出すことはできなかったという。

 これらは精神科医の桑山紀彦氏により六人の中国人「慰安婦」体験を持つ女性のPTSDの調査により判明した心の外傷である。こうしたことから見ても、「慰安帰」が負った傷は、一言で「強姦」としてだけで片付けられるものではない。日本軍により与えられた恐怖と絶望、屈辱感が与えた心の傷は、私たちの想像を遥かに越えるものである。


性奴隷であった「慰安婦」

 日本軍の「慰安婦制度」が性奴隷制として指摘されるようになったのは、国連人権委員会にこの問題が提起されてからのことだ。それまでComfort Women(慰安婦)として語られていたが、人権委員会は「慰安婦」を性奴隷(Sexual Slave)であると位置づけた。国連人権委員会で「武力紛争時における組織的強姦、性奴隷制及び奴隷類似慣行の状況に関する特別報告者」に任命されたリンダ・チャべスさんは、九六年七月の国連差別防止少数者保護小委員会で、研究の予備報告書を提出した。チャベス予備報告書は「強姦」を「物理的力、威嚇または脅迫の使用による同意のない性交」と定義し、「膨大な強姦の犠牲者を含む女性の尊厳と安全への基礎的権利の享受に特別に破壊的な結果をもたらす」と指摘している。

 「慰安婦」だった女性たちが受けた被害は性搾取という強い側面をもっている。奴隷条約一条二項には「奴隷取引とは、そのものを奴隷の状態に置く意思をもって行う個人の捕捉、取得または処分に関係するあらゆる行為を含む」とある。また強制労働に関する国際労働機関のIL0条約(二九条)によれば、強制労働とは「ある者が処罰の威嚇のもとで強要され、かつ自己の任意に申し出たのではないあらゆる労働または役務である」と定義づけている。「慰安婦」が強いられた行為を「労働」と呼ぶにはあまりに実態的ではないが、しかし強制労働の定義にみられるように「慰安婦」は軍人の暴力や制裁に怯えて抵抗や拒絶ができない状況に追い込まれて性の強要を受けた、いわゆる組織的に集団強姦された女性である。「慰安婦」の徴集は「奴隷条約」に禁止されている実態、つまり性奴隷の状態に置く意思をもって捕捉されたのであり、まさに「慰安婦」は性奴隷であった。

 日本軍「慰安婦」にみられる性奴隷制は、侵略戦争の下に女性に対して行われた性暴力を犯罪と認識せぬままに行われたものである。そこには女性に対するセクシズム(性差別)があり、アジアの国々に対するレイシズム(民族差別)があり、帝国主義イデオロギーがそれを推進させていったといえよう。

 女性に対する暴力というのは「女性に対する肉体的、性的又は心理的危害もしくは苦痛をもたらす、又はもたらしそうな性差に基づくすべての暴力行為で、強制や自由の恣意的剥奪のような行為の脅迫も含む」(「女性に対する暴力撤廃宣言」)と定義される。女性たちの証言には尊厳が破壊された苦悩が強く語られ、女性であるが故に受けた暴力(ジェンダー・バイオレンス)の被害の重さを浮き彫りにする。ところが、慰安所に行った体験を持つ元軍人の話には「慰安婦」が受けた被害はほとんど語られない。ここには体験にもジェンダーの差があったことが伺えるわけだが、しかし日本軍人の供述書にはその加害性の一端を記したものもある。

 1942年12月から44年3月頃まで山東省泰安にいたBは、泰安街に監禁していた中国人、朝鮮人女性60名に対して行われた週一回の性病検診に立ち会っていた。そのときの様子を、彼は供述書でこのように述べている。

 「陰部を見ては大きい小さいと罵言を発し、陰部より可検物をとり弄び凌辱行為を行った。検査後は性病の有無を印刷し、泰安軍内と監禁している家に衛生兵にその成績を配布させた。一回に五、六名の性病者がいたが、『お前は今週はだめだ』とどなり、治療もせずに放置した」

 「慰安婦」にされた女性たちがいかに侮辱的な日々に晒され、まさに奴隷的な処遇の下にあったがが、ここからも伺い知ることができる。


日本の責任

 アジア各国の「慰安婦」被害女性たちは、日本に明確な謝罪と法的責任をとることを求めてきた。日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」(以下国民基金)による解決を強行しているが、国民基金がまだ設立される前から、その提案を聞いた女性たちは反対の意思を現してきた。

 「国民が募金したお金を支給するというやり方は、国家責任をはっきりさせないままに『国民の償い』という形でこの問題がうやむやにされてしまいかねない。私たちが求めているのは名誉の回復であり正義の実現だ」と。

 女性たちは戦後、「慰安婦」体験を隠し続けてきた。それは家父長社会が生み出した女性の価値は純潔であるという貞操イデオロギーが、「慰安婦」体験をもった女性に「汚れた女」という烙印を押し、そうしたスティグマ(社会的烙印)に怯える女性たちもまた、自らその「価値観」を受入れて自己否定を続けたといえる。

 しかし、90年代になって、それらは脆くも崩れ去った。女性たちの体験は彼女たちの個人的な「恥じ」ではなく、それは日本軍が組織的・制度的に推し進めた「慰安婦制度」下の女性に向けられた加害であり、かつ当時の国際法に違反した戦争犯罪であり、女性たちは重大な人権侵害を受けた被害者だという認識転換が起こったからだ。「慰安婦」問題の解決には、切り口として回避できない要素をいくつかもっている。前述を操り返すが、戦争犯罪の視点、コロニアリズム(植民地主義)と帝国主義に向けられる視点、そして女性に対する暴力であったというセクシズム(性差別)の視点である。

 戦時下における女性に対する暴力・性犯罪は、日本軍の「慰安婦」問題に止まらず、戦後も世界各地で繰り返されてきた。ボスニア・ヘルツェゴビナの「民族浄化」の名目で行われた組織的なマス・レイプの問題、ルワンダの武力紛争下におけるレイプやそれを目的にした誘拐の多発は、五歳の少女に対する強姦事件をも引き起こした。バンクラデッシユでも九カ月間で二〇万人もの女性がパキスタン兵によって強姦されたという。イラクのクウェート占領時にも組織的な強姦が行われた。これらはほんの一部にすぎない。戦時下、武力紛争下、女性が強姦されることは「戦争だから仕方ない」「当たり前だ」との「普遍」に解消されることはあっても、それが戦争犯罪として裁かれることはなかった。いくら国際法、国際慣習法で禁じていても、法は沈黙していたのだ。そこには加えて国家の沈黙や隠蔽があり、被害を隠そうとする共同体の沈黙と封印があった。被害を受けた女性は、権力者の作り出す男性中心の価値社会の中で、自らを否定して生きるという不条理を覆すことができなかった。

 「慰安婦」問題に象徴される不処罰、責任逃れをこのまま罷り通させてしまうのであれば、武力紛争下の女性に対する暴力は今後も止むことなく続いていくだろう。だからこそ、女性たちは、「慰安婦」問題の解決に戦時下の女性に対する暴力の根絶を訴え、「正義と公正の実現」を強く求めているのだ。

 歴史は、人間の過ちを教えるものでもある。それは、その過ちを操り返さない次世代への教訓であり、従ってその歴史を都合により書き替えたり書かなかったりすることは、歴史から発言力を殺ぐことである。後世は、歴史の事実をもってこそ、何が平和かを選びとることができるだろう。

 加害を語り継ぐのは、戦争を否定するからである。平和を願うからこそ、戦争とは何かを非戦争体験世代に伝えるのだという中帰連の人々の言葉を、私は噛みしめている。

(にしの るみこ ルポライター)

日本の戦争責任資料センター幹事・研究員
戦争被害調査会法を実現する市民会議・共同代表
中国人「慰安婦」裁判を支援する会・共同代表

 

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