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服部良一と指揮者 朝比奈隆はメッテルの「同門下」だった!
山口眞子
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服部良一
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服部克久
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服部隆之
日本のポップスの父!

 服部良一という名に親しくない人でも、《東京ブギウギ》《銀座カンカン娘》、そして《買物ブギ》などは知っているでしょう。最近では椎名林檎ら、尖端的歌手たちがこぞって、彼女らなりの歌い方で歌っていますが、実はこれらは服部良一の作品。大変新しい感覚を持った、今聴いても新鮮な作品です。例に挙げたこれら3曲は戦後の混乱と復興の真っ只中にあった昭和24年に発表されたもの。笠置シズ子が歌い大ヒットしました。戦前の作品では《別れのブルース》や《雨のブルース》などが淡谷のり子の独特な歌唱と共に有名です。戦後すぐには、映画《青い山脈》の音楽監督を務めるなどし、戦前戦後の日本の歴史と共に、歌謡界や映画界を支えた作曲家の一人と言っても過言ではないでしょう。まさに「日本のポップスの父」なのです。

服部良一というひと。
<音楽の才能を発揮した少年時代>


 1907年10月1日大阪で、土人形師の父久吉と母スエの間に生まれた良一は、小学生の頃から音楽の才能を発揮したといいます。小学校卒業後、昼は働き、夜は商業学校に通うという生活をしていましたが、好きな音楽をやりながら給金がもらえる出雲屋少年音楽隊に一番の成績で入隊しました。この出雲屋少年音楽隊というのは道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が、支店のレストランのために結成したもの。後に大阪プリンセスバンドと改称されたようですが、この入団が彼の音楽生活の第一歩であり、契機となったことは言うまでもありません。

<指揮者メッテルの門下生となり、朝比奈隆と同門下に!>

 1926年(大正15年)になると、ラジオ放送用に結成された大坂フィルハーモニック・オーケストラに入団。オーボエを担当します。そこで良一は指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテルに才能を見出され、4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けることになるのです。彼の教えによりリムスキー・コルサコフの和声を習得しました。
 同時期、後年日本を代表する指揮者の一人となった朝比奈隆もメッテルに指揮などの指導を受けていたといいます。つまり、良一と朝比奈隆は同門下だったということです。大阪フィルの仕事の傍らジャズ喫茶でピアノを弾いていた良一はその後、日本のポップス界を生み出し、片や京大オケ出身の朝比奈は指揮者の道を邁進していくことになります。
 尚、良一は自分がジャズに魅せられてしまった事をメッテルに正直に伝えると、「ジャズも立派な音楽です。やるからには、日本で一番よいポピュラーソングの作曲家になりなさい」と言って握手を求められたという逸話も残されています。メッテルとの出会い、師事がなければ服部良一の音楽は生まれなかったかもしれません。

レコード会社の仕事

 昭和になると良一はレコード会社の仕事もするようになり、1933年上京。翌年にはニットーレコードの音楽監督に就任しました。1936年コロムビアの専属作曲家となって第1作目が淡谷のり子の歌う《おしゃれ娘》。そして《別れのブルース》《雨のブルース》を大ヒットさせ、淡谷のり子は「ブルースの女王」と呼ばれるようになるのです。
 因みに淡谷のり子は東洋音楽学校(現東京音大)で声楽を学び、ソプラノのオペラ歌手として将来を期待されていた時期もありましたが、シャンソンの道に。そして、アルトの音域で歌唱した《別れのブルース》が大ヒットするのです。

戦時中は軍歌を一切作らず、ジャズを!

 こうして、ジャズをいかした和製ブルースやタンゴなどの和製ポップスを作り出し、エキゾチックな中国を表現した《蘇州夜曲》、軽快な《一杯のコーヒーから》、そして《湖畔の宿》など次々とヒットを飛ばし、「服部メロディ」を確立していきます。
 戦時中は軍歌を一切作らなかったことも有名な逸話ですが、1944年(昭和19年)、上海に渡り、ジャズ活動に専念。上海交響楽団を指揮して、《夜来香》をシンフォニック・ジャズにアレンジした《夜来香幻想曲》を演奏しています。

戦後日本の活力となった「服部メロディ」

 上海で敗戦を迎えた彼は、戦後は、戦前に実験を重ねていたブギのリズムを取り入れ、《東京ブギウギ》などを作曲。歌った笠置シズ子は「ブギの女王」と呼ばれました。のちに総指揮者を務めた松竹歌劇団での笠置とのコンビで作り上げた、これらの躍動感溢れるブギは、敗戦後の日本の起爆剤となったと言っても言い過ぎではないでしょう。

国民栄誉賞も受賞。

 良一は映画音楽でも盛んに活躍し、戦後すぐの青春映画の代表作《青い山脈》は、東京芸大出身の正統派藤山一郎が伸びやかに歌い、国民的な流行歌になりました。
 こうして、戦後日本のポップス界の礎を築いた服部良一は、ジャズの雰囲気やリズムをいかし、和製ブルースの創作など日本のポップスの改革者でもあったのです。
 さらに、ミュージカル、そして創作オペラ《聖者の恋》、ピアノ・コンチェルト《コンチェルト・イン・E♭》、交響詩曲《群馬》などクラシックの作品も発表していることは忘れてならないでしょう。
 1993年1月30日亡くなりますが、死後、作曲家としては古賀政男に次いで2人目の国民栄誉賞が授与されています。

華麗なる服部一族!

 服部良一の長男、服部克久もパリ国立高等音楽院で学んだ後、様々なジャンルで活躍する作曲家であり、その息子、つまり良一の孫、隆之もパリ国立高等音楽院を終了後、幅広いジャンル(テレビドラマ「のだめカンタービレ」も)で活動している音楽家です。
 さらに良一の次男である良次は俳優として活躍。その良次の次男は、あのバレエダンサー服部有吉です!

コンサートのキーワードは「親から子へ〜家族の絆〜」。

 この服部一族が生んだ服部克久と隆之が催すのが、「服部良一生誕100年記念コンサート」です。キーワードは「親から子へ〜家族の絆〜」。この記念コンサートのために駆けつけてくれる森山良子、ASKA、佐藤竹善、山崎まさよし、一青窃ら、たくさんのアーティストたちと一緒に、良一の作品をコラボレーションしていきます。

コンサートの内容は。

 良一、克久、隆之それぞれのコーナーを設けた構成で、昔のジャズスコアの再現や、クラシック作品の演奏を予定しているといいます。演奏はストリングスを中心とした大編成の東京交響楽団によるもの。
 「来て頂いたお客様には創業100年の服部ブランドのサウンドを存分にお楽しみ頂きたいと思っております」とは服部親子の言葉。

「歌は世につれ、世は歌につれ」

 流行歌は時代を映す鏡です。一方で、流行歌が時代を作るとも言えるかもしれません。いずれにしろ、「服部良一生誕100年記念コンサート」で服部良一の世界に触れるということは、日本の戦前・戦中・戦後という日本の歴史の大きなうねりを、俯瞰することになることは確かでしょう。このダイナミックなうねりを知ることは、今の日本に生きる私たちにとって不可欠とも言えるのかもしれません。

《出演者プロフィール》
服部克久
 1936年(昭和11年)11月1日11時、東京都生まれ。
 パリ国立高等音楽院修了。帰国後は作曲活動のかたわら、日本を代表する作編曲家として、映画、アニメ、ドラマ、音楽番組など様々なジャンルの音楽監督やプロデューサーとして活動。
 又、国内各地及び海外にて精力的にコンサート活動を行っている。日本作編曲家協会会長、日本作曲家協会理事、東京音楽祭会長などを歴任。日本の音楽シーンの発展に尽力している。オリジナル曲を集めた「音楽畑」シリーズは20作を数え、主な作品にTBS系列で放映された「新世界紀行」のテーマ曲“自由の大地”や、“すごい男の唄”、“ル・ローヌ”などがある。

服部隆之
 1965年(昭和40年)11月21日 、東京都生まれ。
 パリ国立高等音楽院修了。帰国後は ポップス〈福山雅治・椎名林檎等からクラシックまで幅広いアーティストのアルバム、コンサート等の編曲を手がける。
 その後、作曲家として映画に於いては96年「蔵」98年「誘拐」・「ラヂオの時間」の3作品が日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。 テレビドラマ「HERO」「華麗なる一族」「のだめカンタービレ」「新撰組!」等、ミュージカル「オケピ!」等、この他にも「コマーシャル」「ゲーム音楽」と多岐にわたるジャンルで作曲家として活躍中である。
コンサート・インフォメーションはこちら→
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