The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20081207203939/http://www.chikumashobo.co.jp:80/new_chikuma/molasky/04_3.html
終戦直後の1946年に営業を開始した上野「ITO」
「マッチ・ト・ラベル 日本全国ジャズ喫茶 マッチの旅」

第4回 戦争・占領・ジャズ

 日本占領・朝鮮戦争
 戦争が占領を可能にした。つまり、太平洋戦争がなければ、戦後の米国による日本本土と沖縄の軍事占領はなかったはずである。同様に、占領がもたらしたのはAmerican culture(英語教育を含めて)の復活および氾濫だと言えよう。異国軍に占領されることを素直に喜ぶ人は少ないはずだが、ジャズや映画などアメリカ文化愛好者は、戦中の厳しい規制から解放されるという喜びを味わったのではないだろうか(註3)。
 戦後初期の日本においてジャズとハリウッド映画は、単なるアメリカの代表的な文化表現だけでなく、文化を紹介する媒体でもあった。この世代の日本人は(いくらファンタジーの世界とはいえ)、映画を通してアメリカ社会と文化に初めて触れた。子供時代、ハリウッド映画に魅了され、そして『グレン・ミラー物語』や『ベニー・グッドマン物語』のような作品によって、ジャズに出合ったという人も少なくない。しかもそのなかには、後にプロのジャズ・ミュージシャンやジャズ喫茶店主人になった例もある。
 アメリカによる占領は1952年に終了したが、同年から施行された日米安保条約および翌年まで続いた朝鮮戦争のため、大勢の米兵が日本国内にしばらく駐屯し続けることになった。これがいろいろな形で、戦後日本のジャズ発展に多大なる影響を及ぼした。
 たとえば、ジャズをよく流していたいわゆる「進駐軍放送」のラジオ番組や、日本のジャズ・ミュージシャンにとって不可欠な演奏場となった米軍向けのクラブなどがまず思い浮かぶだろう。また、米軍人として来日していたハンプトン・ホーズ(ピアノ)のような一流ミュージシャンだけでなく、軍属通訳として駐屯していた日系アメリカ人のアマチュア・ミュージシャンや、基地で働いていた在日フィリピン人ミュージシャンたちが、ジャム・セッションなどで指導者的役割を果たすこともあったようである。要するに、上海ではなく、今度は国内で日本のミュージシャンたちが多種多様な外国人ミュージシャンに接することができたのは、ある意味で敗戦の産物だと言えよう。秋吉敏子のことばを借りれば、「戦争がああいう風に終わらなければ、私はジャズ・プレーヤーになっていなかっただろうと思います」(註4)。
 では、ジャズ喫茶は戦争や占領からどのような影響を受けたかと言うのは、実は難しい。なぜなら、終戦直後には〈ジャズ喫茶〉と呼べる店はほとんどなかったように思えるからである。東京では後にジャズ喫茶として知られる上野の「イトウ」(「イトウ・コーヒー」とも呼ばれる)は1946年に開業したが、当時は〈ジャズ喫茶〉というより〈美人喫茶〉だったそうである(註5)。しかも、1948年に再開した「ちぐさ」の吉田衛によると、再開の時点でも「コーヒーも砂糖もまだない」という状態だったので、1946年から「イトウ」はいったいどのようにして店をやりくりするための飲酒材を入手したのか興味津々である(近くのアメ横の闇市と関係が深いにちがいない)(註6)。
 しかし、この時期にジャズ喫茶が少なかったのは、単に貧困と物資不足だけのせいではないだろう。戦前から仮にレコード・コレクションを持っていたとしても、「ちぐさ」のように戦争で完全に破壊され喪失したため戦後ゼロから収集しなおすはめになったと想像される。
 一方で、進駐軍放送でジャズがよく流れていたことから、ジャズ喫茶に入らなくてもラジオで(しかも無料で)レコードが楽しめることも関係していたのかもしれない。アメリカやヨーロッパでジャズ喫茶が出現しなかった理由として、単に高度な生演奏を身近に聴けたことや、レコードが比較的に安かったことや、各国の「文化の違い」および「国民性」などだけでは説明し切れない。やはり、少なくともアメリカの都会では、ジャズ・レコードを毎日何時間も(あるいは二四時間)流しているラジオのジャズ専門番組があったことも大きな理由だと思う。
 戦後、日本でジャズ喫茶が増え始めるのは'50年代半ばからだったようであるが、当時、輸入盤のレコードを入手するのに、ある程度米兵やその関係者に頼ることもあった。その一例として、2007年の「ちぐさ」閉店により日本最古のジャズ喫茶になったと思われる店を挙げたい。同店は東京にあるのではなく、横浜や神戸のような港町にあるわけでもない。逆に、内陸の埼玉県の朝霞市にありながら、どういうわけか「海」という店名がついているのである。1952年に開業してからずっと同じ立地にあり、現在の二代目マスターは、店を開店した小宮一晃(かずあき、まだご健在)さんの長男一祝(かずのり)さんである。2008年6月24日、私は東京中央線のある駅から北行きのバスに乗り、この内陸の「海」に出かけた。

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