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時代の証言〜昭和の歌声
酒は涙か溜息か―藤山一郎音楽学校停学事件
2006/04/20
J・ポップが盛んな今日、大学生がポップを歌ったからといって、停学処分になるなど、現代ではありえないであろう。ところが、昭和の初期、生家の借財を返済しようと、アルバイトで流行歌を歌って大ヒットし、それが原因で学校を停学処分となった事件があった。藤山一郎の音楽学校停学事件である。当時は話題だった。
「官立の音楽学校の生徒が流行歌を歌っている」
巷ではこんな噂が流れていた。1931(昭和6)年秋、満州事変が本格的になりだした頃、《酒は涙か溜息か》のレコードがあまりにも売れたので、藤山一郎という歌手が話題になった。藤山一郎は、本名増永丈夫。当時、東京音楽学校(現・東京芸術大学)声楽科の学生で将来をバリトン歌手として嘱望されていた。昭和恐慌で傾いた生家の借財返済のためのアルバイトだった。豊かな声量をメッツァヴォーチェの響きにしてマイクロフォンに効果的な録音をした。声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法によって古賀政男の感傷に溢れたギターの魅力を表現したのである。
《酒は涙か溜息か》はDマイナーの低いキーで声を張るところがなかった。Gマイナーのキーでオペラのアリアのように歌ったら、古賀政男が意図した「ジャズと都都逸」の距離も縮めることもできず、ヒットしなかったであろう。だが、敢えて、藤山は低いキーで歌った。藤山の知性と感性の勝利だった。
東京音楽学校は「上野」と呼ばれた唯一の官立の音楽学校である。クラシック音楽の殿堂であり権威があった。音楽学校の校則も厳しく、音校生が校外で演奏することを禁止していたのである。しかも、一番やってはいけないのが流行歌のレコード吹込みだった。だから、バレないように藤山一郎という芸名で歌ったのだ。だが、あまりにもレコードが売れたため、学校当局が知ることになり、大問題となったのである。
増永青年は、学校の主事室でこってりと油を絞られた。お説教を黙って聞いていればよかったものを、あまりにも激しい言葉に我慢ができず反論してしまった。先生たちの学校外の実業は認めて、生徒の実業は禁止する。これは片手落ちではないかというのが増永の言い分だった。
これがいけなかった。すっかり、心証を害してしまい、あわや退学というところまできてしまった。だが、学校の期待の星をそう簡単に退学処分にはできない。退校処分に真っ先に反対したのが声楽科の教授陣だった。クラウス・プリングスハイム教授は「ローエングリーンのバリトンが使えなくなる」と強硬に反対。事の重大さがヨーロッパ外遊中の乗杉嘉壽校長のところにも伝わり、これは一大事と急遽帰国した。
乗杉は増永の才能を高く評価していた。なにしろ 増永青年は「上野が始まって以来の最大の歌手になると」と期待されていたからだ。結局、一ヶ月の停学で一件落着した。しかも、その停学期間が冬休みという粋な計らいだった。だが、藤山一郎の歌声は増永丈夫を置き去りにして天翔けるかのように全国に流れていた。将来を芸術家として嘱望されていたはずの人生が、クラシックと流行歌の二刀流とはいえ、国民的な大衆音楽家として人気を博すという稀有な人生の始まりだったのである。まさか、東京芸術大学卒から国民栄誉賞が出ようとは。まったくの予想外だった。
(菊池清麿)
◇
関連サイト:
酒は涙か溜息か(懐メロカラオケ「歌は世につれ 世は歌につれ」)
古賀政男と藤山一郎の合作芸術・《酒は涙か溜息か》は一世を風靡。だが、レコードが売れすぎて、藤山は音楽学校を一ヶ月の停学処分。
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