ヒット曲のなかった井上陽水だが、東京で浪人生以上の自由さを満喫していた。そんなとき、所属事務所の友人から「整理されかかってるらしい」と聞かされる。さすがに慌てた。
その折り、ぽつぽつと書きためていた曲のデモテープが、ポリドールレコードのディレクター多賀英典の耳にとまった。「アンドレ・カンドレ」から井上陽水と芸名を変え、多賀と音楽づくりが始まった。
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〈父は今年2月で65/顔のシワはふえてゆくばかり/仕事に追われ/このごろやっと ゆとりが出来た〉
1972年3月、「人生が二度あれば」で再デビューを飾った。背水の陣で、という心境になりそうだが、陽水は違っていた。
「よし、今度は決めるぞとか、そういうのはないんですよ。このときだけじゃなくて、自分で事務所作ったときとか、大麻事件の後でアルバムを出すときとか、いろんな節目があったと思いますけど、そういう記憶がないんですよ。いつでもそれなりにまじめなんですけどね」
記念写真に収まるのを嫌った幼いころから、かしこまって何かをやることが苦痛なのである。
「井上陽水」の名はじわじわと大衆へ広がり始めた。同年にアルバム「断絶」と「陽水2センチメンタル」を発売。73年3月のシングル「夢の中へ」は初めてのヒット曲となった。ライブアルバム「もどり道」も驚異的に売れた。
70年安保闘争の後、あさま山荘事件が起こり、海の向こうではベトナム戦争が終結した時代だった。高度経済成長が一段落したこのころ、人々は甘いだけでも、からいだけでもない、強烈な世界観を提示した陽水のとりこになった。
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アルバム「氷の世界」発売を控えた同年9月、そんな時代に届けられた新曲「心もよう」は、予想を超えた大ヒットとなった。
〈さみしさのつれづれに/手紙をしたためています あなたに〉
歌の書き直しを多賀に命じられた陽水が、九州にいたころの彼女を思い出しながらつづった歌だった。
このとき、陽水と多賀の間に小さな衝突があった。陽水は忌野清志郎と共作した「帰れない2人」をシングルにしたかったが、多賀は「心もよう」にこだわった。最後は陽水が折れた。さらに「心もよう」の後で、周囲から同じセンチメンタルな曲を求められた。「柳の下のドジョウ」でヒットを狙う提案である。
「そういうのを『すてきだな』とは感じられなかった。そりゃないんじゃないっていうのが直感的な反応でしたね。まだまだいろんなものが提出できるんじゃないかっていう思い上がりもありましたし」
〈窓の外ではリンゴ売り〉で始まる「氷の世界」も、当初は詞の書き直しを命じられた。それまでは目上で、経験もある多賀に従ってきた陽水だったが「こればかりは譲れなくて、このまま行かせてほしいと頼んだ」のだった。
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73年12月に発売されたアルバム「氷の世界」は13週連続1位となり、首位返り咲きを繰り返し通算35回の1位を獲得。75年8月には100万枚を突破、日本初のミリオンセラーとなった。
それは、陽水に1人のシンガー・ソングライターとして、歌への自信とプライドを芽生えさせた。
一方、売れなかった時代の自由な日々は、曲作りとレコーディング、そしてコンサートに追い立てられる日常に一変した。当初は達成感もあり、素直に喜んでいた陽水だったが、この状態が数カ月も続くと、別の感情を抱き始めていた。
「虚無的な感覚とか、『世の中、間違ってる』的な感じとか。要するに、世の中に求められてるわけですから」
陽水は、本人いわく「世の中出たくない病」にかかり、自宅に引きこもる。長い「嵐」の始まりだった。
=敬称略
(塚崎謙太郎)
●私の3曲
能古島の片想い
たいくつ
氷の世界
▼二枝崇治さん(47) 中学2年のときに初めて聴いた「能古島の片想い」。その後、片想いの相手とお付き合いが始まり、高校1年の初デートが能古島でした。京都の大学の寮時代、彼女との月1回のデートが待ち遠しくて、退屈していたとき、「たいくつ」を口ずさむと楽しくなれました。そして、その彼女と11年交際し、結婚。6人の子どもに恵まれました。公演のたびにアレンジが変わる「氷の世界」が楽しみなのです。今年のコンサートは家族8人で参加しました。陽水の各曲ごとに、私たちの人生の香りが漂います。今も年に1度、妻と能古島に行きます。(会社経営、福岡県粕屋郡)
=2006/11/28付 西日本新聞朝刊=
2006年11月28日15時11分