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「僕はさっぱりした歌を歌いたいっていうのがあるんだよね」と語る前川清=名古屋市・御園座の楽屋で
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この師走、前川清は名古屋・御園座の舞台に立っていた。近年、コンビを組む梅沢富美男が看板となっている大衆演劇の一カ月公演だ。喜劇で客席をわかせたかと思うと、歌謡ショーでは一転、スーツ姿のきまじめな表情で「長崎は今日も雨だった」を歌い始めた。ほぼ直立不動だ。
「動くとね、音程が外れて歌えない。リズムもダメになってくるし」。そのたたずまいのせいか、別れや未練を扱った曲をソウルフルに歌ってもどこか淡く、抑制のきいた歌になる。
「本当は、歌謡曲は自分が目指す歌とは違ったけれど、食うために仕方なく歌い始めたんです」。そんな彼が目指した歌とは何か。
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「吉(幾三)君なんかは民謡を聴いていて土の臭いがする。僕は環境が違う。米軍基地の街に育ったから洋楽ばっかり。エルビス・プレスリーが好きだった」
1948年生まれ。高校進学で長崎市に出るまで長崎県佐世保市で育った。大工だった父親は基地に出入りし、前川も放課後、米兵の子どもたちと野球で遊んだ。帰り道、米兵向けバーから流れる陽気な音楽をよく耳にした。中高生のころは、ラジオ番組「9500万人のポピュラー・リクエスト」を愛聴し、ヒットチャート1位の曲をメモするとレコード店へ向かい、注文する少年だった。日本の歌謡曲は「身近に感じなかった」。
高二で中退。ほどなく両親は長崎を離れたが、映画館やダンスホールで歌っていた前川はひとり長崎に残った。キャバレーからも声がかかるようになったものの、夜の社交場は自分の好みで歌えるほど甘くはなかった。前川の好む「楽しい曲」は、店にすればアップテンポで、「静かな歌を歌ってくれ」と苦情が出た。
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「長崎は今日も雨だった」でデビューした1969年の内山田洋とクールファイブ。「芸能界に入って有名になろうなんて考えてなかった」と前川(手前)は振り返る
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「お客さんはスケベ心があるから、ホステスとチークを踊りたい。それで静かな曲、つまり歌謡曲となるんですよ。お金をもらうために、大人の気に入る歌を歌うようになった」
やがて、長崎一といわれたキャバレー「銀馬車」の専属バンドだった「内山田洋とクールファイブ」に実力が認められて、仲間入り。69年に上京した。
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当時はムード歌謡の全盛期で、「黒沢明とロス・プリモス」や「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」などのグループが活躍し、ファルセット(裏声)を使った女声的なコーラスが主流だった。その中で男声的なコーラスのクールファイブの登場は歌謡界に衝撃を与え、デビュー曲「長崎は今日も雨だった」は大ヒットした。
「人と一緒の歌い方をしてもしょうがない。みんな女っぽくて甘い感じだったから、男っぽい歌い方のほうが楽だと思った」
70年に出した「噂(うわさ)の女」で確立した、ほえるようにウォーッと下からすくい上げてクライマックスを作っていく独特の歌い方もそうした発想からだった。
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前川のうねるような歌い方は演歌のこぶしとは異なる。クールファイブ時代には独自で糸井重里・坂本龍一コンビにソロ曲を、87年の独立後も五木寛之、福山雅治など異ジャンルの人に歌の依頼を続ける。「新しい血を、と思って気持ちを切り替える」ためだ。
前川は「自分の歌が演歌だとは思っていない」と語る。「演歌って北島(三郎)さんみたいな感じですよね。おれ、あんなにこぶし回らないし」
85年の「週刊平凡」の記事が興味深い。森進一、細川たかしとの鼎談(ていだん)で、森が〈おれたちは歌謡曲・流行歌でデビューしたのにいつのまにか演歌になった〉と語り、前川が〈おれもムード歌謡グループとしてデビューした。今、演歌〉と応じている。2人とも曲風を変えたわけでもないのに周囲の区分けが変わったのだ。
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歌謡曲や演歌の定義は時代、人によって異なるが、国民的歌手美空ひばりが死去した89年に「ザ・ベストテン」が終了して以来、相次いで民放の歌謡番組が姿を消し、「歌謡曲」が次第に使われなくなった。本来、演歌の枠にとどまらない歌世界をみせる前川も、音楽産業では演歌歌手でくくられるようになった。福山雅治が提供したポップス調の「ひまわり」も演歌チャンネルで流される。それだけ演歌の枠が広がってきたともいえる。
前川は「演歌歌手と言われても違和感はない」と淡々としている。きまじめに「いい歌を」と思い、自分は仕事師のように懸命に歌うだけ、ジャンル分けは他人のすること、との思いがあるのだろう。直立不動の姿勢はその象徴だ。
「お客さんに歌で何か訴えようとは思わない」
ド演歌とは一線を画すべたつかない距離感から、演歌を歌っている。
=敬称略
(神屋由紀子)
=2006/12/13付 西日本新聞朝刊=
2006年12月13日16時30分