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時代の証言〜昭和の歌声
藤山一郎(ポピュラー)・増永丈夫(クラシック)二刀流の復活
2006/09/14
国民栄誉賞歌手・藤山一郎(声楽家増永丈夫)は、1911(明治44)年、東京日本橋蠣殻町の生まれ。1993(平成5)年に亡くなるまで、日本音楽界では男性現役最年長歌手として、または指揮・作曲家として君臨した。芸術家としての人生を歩むはずの男が、不世出の名歌手として国民的人気を博すという稀有な人生でありながら、その音楽生命は永かった。
藤山一郎は、1936(昭和11)年、経済的事情からテイチクへ移籍した。そのため、藤山一郎を優先し声楽家増永丈夫の活動を一時的に中断している。正格歌手藤山一郎は、テイチクでヒット曲を飛ばし、そして、江戸情緒豊かな日本調歌手・東海林太郎と「団菊時代」を築いたことは日本大衆音楽史の伝えるところである。
藤山は、当時音楽記者だった上山敬三に「クラシックの増永丈夫に帰れ、声がもったいない」と食いつかれたことがあった。上山氏は日比谷公会堂で聴いた増永丈夫のベートーヴェンの《第九》が忘れることができなかったのだ。増永丈夫の独唱は、流行歌藤山一郎の甘いテナーにつながらない堂々としたバリトンだった。しかも、聴衆は美しいテノールの音色にも感銘した。
藤山は、テイチクでヒットを放ち、生家の経済事情を解決した後、実はヨーロッパに行く予定だった。ところが、第二次世界大戦の勃発で断念を余儀なくされた。藤山の運命が変わったのである。クラウス・プリングスハイムに絶賛された増永丈夫のバリトンは同地でも好評を博し、声価を得たであろう。
藤山一郎は、この戦争でヨーロッパ音楽は無くなるのでないかと思ったそうだ。とりあえず、藤山は、1939(昭和14)年4月、すでにコロムビアに復帰していたが、再びビクター時代と同様に藤山一郎と増永丈夫・クラシックとポピュラー音楽の二刀流を復活させたのである。
1939(昭和14)年、「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」(日比谷公会堂)でヴェルディーのオペラのアリアを独唱した。1940(昭和15)年4月には、NHKラジオで、マンフレット・グルリットの指揮で久々にベートーヴェンの《第九》をバリトン独唱し、その顕在ぶりをしめした。
藤山は、山田耕筰の歌曲・《この道》でも素晴らしい歌唱芸術をのこしている。この歌曲は、ふつうテノールの声楽家がGのキーで歌うが、バリトンの藤山一郎は敢えて、楽曲のやさしさ回想的なメルヘン世界の詩想・楽想をいかしたE♭のキーで独唱した。
レコードのレーベルは藤山一郎だが、1・2・4番は、増永丈夫的な声量豊かなバリトンで、3番は藤山一郎の美しいテナーのメッツァヴォーチェで独唱している。1941(昭和16)年8月新譜の弘田龍太郎の歌曲《武蔵野》も藤山一郎の名唱のひとつである。これは国民歌謡としても放送された。
藤山一郎としての歌謡曲では、1939(昭和14)年、南国の異国情緒あふれる《懐しのボレロ》、タンゴのリズムに乗った《上海夜曲》、タンゴといえば、1941(昭和16)年、服部良一作曲で知らざる藤山一郎の名唱・《雨の沈丁花》、さらにカーマイケルの《スターダスト》を意識したヴァイオリンのストリングスとピアノのアルペジオが大空の流星群を思わせ、藤山一郎の歌唱も冴える《星呼ぶ丘》など佳曲が多い。
太平洋戦争直前、藤山一郎は、クラシックの本格的な独唱をバリトン増永丈夫で、大衆音楽を正格歌手テナー藤山一郎で歌い、芸術と大衆において己の音楽を追及したのである。1943(昭和18)年、藤山一郎は、南方の激戦地に慰問に向かった。幾度の死線を突破して音楽活動を続けたのだ。これが藤山一郎の人生を大きく変えることになったのである。
(菊池清麿)
正格歌手テナー藤山一郎の歌唱芸術
芸術を追求する増永丈夫の華麗なバリトン独唱。日比谷公会堂の聴衆を魅了。
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