The Wayback Machine - https://web.archive.org/web/20101112081121/http://www.city.tsuruga.lg.jp:80/sypher/free/kk-museum/polish-orhpans/polish-orhpans.html

ポーランド孤児 1920年〜1922年、ポーランド孤児763名は、日本赤十字社の迅速な救助によって敦賀港に無事上陸した。

寒風吹きすさぶシベリアの荒野を飢餓と闘いながら放浪を余儀なくされた。
敦賀に上陸した孤児たち
 1920(大正9)年7月23日、ロシアのウラジオストクから陸軍の輸送船「筑前丸」が敦賀港に入港しました。乗船していたのは粗末な服を 着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供たちでした。子供たちは町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食をとった後、列車で東京へ向かいました。彼らは、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児 でした。その後も上陸は続き、計5回にわたり375名の孤児たちが救われました。

(写真は、孤児たちが上陸した頃の敦賀港)
孤児たちが上陸した頃の敦賀港
シベリアの孤児たちの惨状
 1919(大正8)年、ロシア国内は革命、反革命の勢力が争う内戦状態でした。この時、シベリアにはロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人たちが15万〜20万人いたと言われています。彼らは、シベリアの酷寒の地で過酷な重労働、飢餓や疾病の中で極めて悲惨な生活を送っていました。特に、親と死別した子供たちは、腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、まさにこの世の地獄のような極限状態でした。

(写真は、ウラジオストクに集合した出港前の孤児たち)
ウラジオストクに集合した出港前の孤児たち
孤児たちを救う人々
 1919年(大正8)年10月、アンナ・ビルケウィッチ女史を中心にウラジオストクで「波蘭児童救済会」が組織されました。頼みとしていた米国などの赤十字も軍隊のシベリア撤退と共に本国へ引揚げ、援助が断ち切れてしまいました。万策尽きた委員会は日本政府に救援を求め、政府はこの窮状に深く同情するとすぐさま日本赤十字社に指示をしました。日赤の行動は早く、受入れ体制を整えると同時に、シベリア派遣の日本軍の協力を取りつけ、救助活動に入りました。

(写真は、ポーランド児童救済会幹部(中央:会長アンナ・ビルケウィッチ女史))
ポーランド児童救済会幹部(中央:会長アンナ・ビルケウィッチ女史)
孤児たちを迎える準備
 1920(大正9)年から21年に収容された第1次の孤児たち375名は東京府下豊多摩郡渋谷町(現東京都渋谷区広尾4丁目)の「福田会育児所」に収容されました。福田会は日赤本社病院に隣接し、設備も整い構内には運動場や庭園があり子供たちを収容するのに適した環境でした。また、1922(大正11)年にさらに助け出された第2次の孤児たち388名には、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」が用意されました。この寄宿舎は新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所でした。
筑前丸
「筑前丸」(総トン数:2,448)
台北丸
「台北丸」(総トン数:2,469)
「浦潮ヨリ当港ニ上陸シタルニ付菓子・絵葉書等ヲ贈リ亦宿舎ノ斡旋等一行ノ慰撫ニ努メタリ」
さらに助け出される孤児たち
 1922(大正11)年3月、ポーランド児童救済会長アンナ・ビルケウィッチ女史は、今なお、シベリアで救いを待つ孤児がアムール、ザバイカル並びに沿海州各地方を合わせて多数に上ることを訴え、再度日本赤十字社に孤児救済を懇願しました。現状を把握した日赤では大いに同情を寄せ、同年8月7日から29日まで3回に分けて児童388名、付添い39名の計427名を敦賀港に上陸させました。

(写真は、敦賀の松原での孤児たち)
敦賀の松原での孤児たち
受入れする敦賀の人たち
 孤児たちの上陸にあたり、敦賀上陸委員は敦賀から大阪間の運賃割引の優遇措置を鉄道省に申請したり、敦賀町では、菓子・玩具・絵葉書等を差し入れ、宿泊・休憩所などの施設の提供を行いました。また地元の有志をはじめ、婦人会でも菓子・果物などの差し入れを行い子供たちを慰めました。敦賀での彼らたちの滞在は、数時間、長くても1日というものでしたが、当時の敦賀の人たちはその短い時間でも、かわいそうな子供たちにできる限りの温かい手を差し伸べました。
シベリアポーランド孤児救出経路 敦賀でのポーランドの児童たち
敦賀でのポーランドの児童たち
ウラジオストック港
ウラジオストク駅と港
記憶と記録が残る敦賀
 9歳の時に上陸したポーランド・ワルシャワ在住のハリーナ・ノビツカさん(故人)は、「到着した敦賀の美しい花園のある浜辺の民家。バナナやみかんなど見たこともない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」と語りました。また敦賀では、1920〜22(大正9〜11)年の「敦賀町事務報告書」の中に孤児の救助費としてポーランド人からの寄付の申し出や孤児受入れの記載が見られ、さらに松原尋常高等小学校沿革誌の中にも来校の記載が見られます。
敦賀から東京、大阪へ
 1920(大正9)年から21年に収容された第1次の孤児たち375名は東京府下豊多摩郡渋谷町(現東京都渋谷区広尾4丁目)の「福田会育児所」に収容されました。福田会は日赤本社病院に隣接し、設備も整い構内には運動場や庭園があり子供たちを収容するのに適した環境でした。また、1922(大正11)年にさらに助け出された第2次の孤児たち388名には、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の「大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎」が用意されました。この寄宿舎は新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所でした。
「看護婦さんは、病気の私の頭を優しく撫で、キスをしてくれました。それまで人に優しくされたことがありませんでした。」
孤児たちの状況
 収容された時の孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態でした。また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気にかかっており、すぐに治療が施されました。さらに、長い放浪のため、着ている物はボロボロで靴を履いている子供はほとんどいませんでした。そこで日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や菓子、果物を支給しました。
日本での生活
 収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれたり、動物園や博物館へ行ったりしました。また貞明皇后から御下賜金が届けられ、さらに日本全国から多数の寄付が寄せられました。子供たちはよく規則を守り、そして毎日朝食前と就寝前には必ずお祈りをしていました。また病院では、彼らが直ぐに充分な治療が受けられるよう病室を準備しました。その他、安全のため警官が配備されるなど、子供たちの周りには善意があふれていました。
孤児たちと日赤の看護婦 1 孤児たちと日赤の看護婦 2
孤児たちと日赤の看護婦
一日の生活
 子供たちの一日は午前6時に起床(冬季は7時)し、洗面後お祈りをして7時に朝食をとりました。その後は、読書や勉強したり、寄贈のおもちゃで遊んだりして過ごしました。午後は各自、自由に過ごし午後6時には夕食をとり、午後8時にお祈りをして就寝しました。また、時には市内を見物したり、いろいろな慰安会に出席したりして楽しく一日を過ごしていました。食事は、子供たちの好みと栄養を考え、一緒に来日した付添い人が調理をしました。
食事をする孤児たち
食事をする孤児たち
洗濯物と孤児たち
洗濯物と孤児たち
悲しい出来事
 懸命に孤児たちの世話をしていた、看護婦の松澤フミさんは孤児の中から発生した腸チフスに感染し、23歳の若さで殉職しました。彼女の死は多くの子供たち、そして関係者に衝撃を与えました。事情を知らない幼子は、優しかった松澤看護婦の名前を呼び続け、周りの人たちの涙を誘いました。彼女は、1921(大正10)年にポーランド国から赤十字賞、また1929(昭和4)年に名誉賞も贈られました。松澤フミ看護婦は、新潟県出身で、当時神奈川県支部に所属していました。

(写真は、看護婦を囲む孤児たち)
看護婦を囲む孤児たち
惜 別
出港の当日、船のデッキに孤児たちが並び、「君が代」と「ポーランド国歌」を涙ながらに歌いました

 両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り、「アリガトウ」「サヨウナラ」と叫びました。その時、見送る人や送られる子供たちの顔には別れを惜しむ涙がありました。
 第1次の孤児たちは、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150名、香取丸で114名、伏見丸で106名の合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへ送られました。また、大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2回にわたり、香取丸で191名、熱田丸で199名の合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港し、ポーランドへ送られました。
第1次の孤児たちを横浜港からアメリカへ輸送した諏訪丸
第1次の孤児たちを横浜港からアメリカへ輸送した諏訪丸
(総トン数:11,758トン)
神戸港から帰国のため乗船する孤児たち
神戸港から帰国のため乗船する孤児たち
第2次の孤児たちを神戸からポーランドへ輸送した香取丸
第2次の孤児たちを神戸からポーランドへ輸送した香取丸
(総トン数:9,847トン)
感 謝
「貴社の献身的援助により、救出された在シベリア・ポーランド子弟を代表して感謝の意を表します。」
元極東青年会々長
 Jerzy strzalkowski
 (イエジ・ストシャウコフスキ)
 15歳の時に大阪に収容され、帰国後に「極東青年会」を組織して、第2次大戦で祖国のために戦ったイエジ・ストシャウコフスキ氏は、日赤大阪府支部を訪れ、「64年前、私たち孤児が日本の皆さんや日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたく来ました。ありがとうございました。」と大粒の涙を拭おうともせず、感謝の気持を伝えました。
 また、帰国後、ドイツ占領下でユダヤ系ポーランド人の男の子をかくまって育て、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を授与された孤児もいました。
大阪の宿舎前の孤児たち
大阪の宿舎前の孤児たち
日本を訪れた元孤児のストシャウコフスキ氏(左)と林啓三日赤社長(当時)
日本を訪れた元孤児のストシャウコフスキ氏(左)と
林啓三日赤社長(当時)

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