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久留米アート.info

福岡県久留米市を元気に! 音楽・映像・造形・舞踊・文芸・歴史 アート総合インフォメーション

 




久留米市の歴史と秘話


・久留米の名前の由来 ・久留目・クルミ(アイヌ語)・玖留目神・呉部(繰部くりべ)・来目皇子(くめのみこ)・クルメク(転く)等々
・久留米の歴史 ・平安時代は筑後国の国府・江戸時代は久留米藩

・明治時代初期、久留米は久留米県の県庁所在地だった

・幕末から江戸の歴史
・久留米市出身・所縁の有名人・著名人 ビジネス:・井上伝・田中久重・日比翁助・ 牛島謹爾 ・ 石橋正二郎 ・ 永田清 ・ 真藤恒・ 四島一二三 ・倉田雲・平田雅彦芸術・文化:・ 青木繁・ 坂本繁二郎・ 古賀春江・ 高島野十郎・ 藤田吉香・ 丸山豊・ 松本零士・ 菊竹清訓・津留崎健・酒見賢一・矢野隆・近藤洋太(詩人)熊谷弘(指揮者)田代佳代子(マリンバ奏者)松本零士・さいふうめい芸能・マスコミ:・ 中村八大・ 鮎川誠・ 藤井フミヤ・ 鶴久政治・ 高杢禎彦・ 藤井尚之・有坂来瞳・ マオ・ 田中麗奈・ 石橋凌・ いのくちゆか・ 藤吉久美子・ MAI・ 松田聖子・ 藤田進・LLブラザーズ・草場恵・高田里穂・坂本直弥・坂本和弥・吉田羊・井上麻美・ 山崎かおり・ 古賀ゆきひと・ 財津ひろみ・ 吉竹史・中園健司・麻月れんか・江崎英子・坂口祐三郎・生熊朗・坂井泉水(ZARD)・E-ZEE BAND・Buzz72+・L.L BROTHERS・SEED・愛禾みさ・稲田千花・岩橋直哉

スポーツ:・ 坂口征二・ 中野浩一・ 香月良太・ 香月良仁・ 小川健太郎・ 町豪将 中村良二 ・ 秋吉耕佑・ 中村半助・ 紫原政文・ 内田博幸・ 城後寿・ TATSUJI・朝山東洋・青柳進

歴史:・ 高山彦九郎 ・野崎教景・ 真木保臣・ 篠原泰之進・ 緒方春朔・ 蒲池豊庵・ 佐田白茅・ 中野宗助

政治:・石井光次郎・ 楢橋渡

学問:・ 国武豊喜・ 王丸勇・園田英弘・牟田泰三

その他:・ 元田作之進・ 酒見賢一・ 宮崎哲弥・ 江崎誠致・ 坂本元蔵・菊竹清訓(建築家)

●久留米の名前の由来

「久留米」という地名は室町時代から文献に見られ、「久留目」とも書かれた「報恩寺坪付帳」によると1418年には「久留目」という地名が記されている)

  • 福岡県久留米市の名前の由来は、昔々全国にアイヌが住んでいた頃の「日本の男ん子」と言う意味のアイヌ語のクルミが語源という説。
  • 筑後守吉志公忠が天慶七年(944年)に注進した「筑後国神名帳」に「玖留目神を祭祀した」との記述があり、これによるとするもの。
  • 上古、大陸から渡来した機織りの工人集団がこの地に住んでいたので「呉部(繰部くりべ)」の居住した地、あるいは「呉姫(くれひめ)」、「呉女(くれめ)」、「繰女(くりめ)」とよんだのがクルメに転訛したというもの。
  • 用明天皇の皇子である「来目皇子(くめのみこ)」に由来するというもの。(来目皇子は新羅討伐のため筑紫に下り推古11年(603年)福岡県糸島郡志摩町久米で病死している)
  • 筑後川が大きく蛇行していることから、それを意味するクルメク(転く)を語源とするもの。

●久留米の歴史

律令制下で制定された令制国の一つである筑後国の国府が置かれ、以後、筑後国の中心として情報と経済の中継地点として栄えてきた。平安時代末期の1164年(長寛2年)、肥前国の豪族草野永経が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後約400年間、北部の山本郡は草野氏が支配し、南部の三潴郡は筑後十五城筆頭の蒲池鑑盛を領主とする柳川の蒲池氏が支配。江戸時代に入り1621年(元和7年)、有馬豊氏が徳川氏から戦功を認められて丹波国福知山(現在の福知山市)から加増移封され、以後は有馬氏の統治による久留米藩の中心地となった。江戸時代は藩の殖産興業策もあり久留米絣など、商業都市として発展する。

廃藩置県によって久留米県(→三潴県)の県庁所在地となったが、1888年に三潴県が福岡県に統合されたため県庁所在地ではなくなった。1897年(明治30年)に第12師団、1907年に第18師団の駐屯地になってからは軍都としても膨張、1922年(大正11年)に始まった地下足袋生産がゴム化学工業の発展に結びつく。 太平洋戦争末期、1945年8月11日の久留米空襲により死者212名、焼失戸数4,506戸を出した。

久留米市は利根川・吉野川と共に日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次(二)郎の別名で呼ばれることもある九州一の大河。その筑後川の肥沃な恵みを受け、農業は勿論、商業、工業などの産業も発達したが、上記の久留米市出身の有名人・知名人の一覧を見ても分かる様に、数多くの文人・芸術家・音楽家・政治家を輩出しており、文化芸術の街と言えます。

●久留米藩と明治維新

坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎など、明治維新につくした志士たち1356名が眠る、京都東山霊山護国神社(りょうぜんごこくじんじゃ)のふもとに翠紅館(すいこうかん)跡の立派な門があります。

翠紅館は、幕末の頃、西本願寺の別邸であり、文久3年(1863)には坂本龍馬をはじめ、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木和泉守らも集い志士達の会合の場でした。これが歴史に名高い「翠紅館会議」です。

明治維新の本当の立役者、真木和泉守保臣

真木和泉は、江戸末期、久留米にある水天宮の全国総本宮(現在水天宮は全国に60社あります)の祠官を勤めていました。
明治維新時、和泉守が書いた「大夢記」には、江戸幕府を討す戦略が描かれていました。

真木保臣は、他にも多くの著書を残しており、五箇条のご誓文、坂本龍馬の船中八策は真木保臣の考えをコピーしていたのではと思わせるほどに酷似している。

明治維新の口火ともいえる「蛤御門の変」は彼の計画から出されたものでした。しかしながら維新の立役者である真木和泉守の事を知る人は、意外に少ないのではないでしょうか。

その真木和泉は、公卿の教育機関として弘化4年(1847)に作られた学習院の教師第一号でした。その教育内容は儒学、和学であり、その教員たるや白刃を潜り抜けた尊王攘夷派の脱藩浪士が占めている。

薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)、久留米(福岡南)の五大藩は明治維新時「薩長土肥米」と称され、維新の最前線で活躍した五大藩でした。

真木和泉守は薩摩、長州と意図を通じる役目を持ち、又、後の総奉行の水野玉名と大変親しかった。さらに、当時の久留米は各地の尊王攘夷派の情報中継地になっており、江戸幕府には脅威的な存在でもあった。真木和泉守は長州尊攘派と共に歩んでおり、天保学連と呼ばれていた。
一方久留米藩十代藩主有馬頼永は水戸学派に学んでおり、鍋島直正、島津斎彬、山内豊信らと交流があった。そして藩内に弘化の改革をもたらしました。

しかしながら、頼永が若くして25歳で没してしまうところから久留米藩の歴史は大きく変化します。江戸幕府は久留米藩に急速に接近します。頼永の弟頼咸に徳川家はなんと将軍の娘を嫁がせます。将軍の娘が嫁入りすると聞いた久留米藩は、急いで寺町を作り、江戸幕府に恥じないような街作りを始めます。そしてこれ以降、久留米藩は江戸の馬喰町から莫大な借金を背負うことになり、さらに、頼咸の弟である富之丞は、松平藩に養子入りすることになりました。

久留米藩は尊王派から佐幕派へと百八十度の転換をするわけです。もちろん藩は大混乱、藩内権力抗争が始まります。真木和泉守ら天保学連は十二年間禁固(下記・真木泉守の足跡 参照)となりその後脱藩、長州側に組するわけです。この結果、天保学連は、地場を背景にして活動することはできなくなりました。
ただこれにより、真木和泉守の討幕行動はおのずと早まったのかも知れません。それが明治維新のきっかけとなったことも事実です。

「薩長土肥米」はいつの間にか「薩長土肥」と呼ばれるようになり、久留米藩の名は、明治維新に多大な貢献をしながらも、いつの間にか消え去っていきました。
それが無ければ、久留米藩は今でも維新の立役者として、その名を歴史に深く刻み込んだことでしょう。そして真木和泉守が生きていれば、久留米藩は、維新後の明治政府で、薩摩の西郷隆盛や大久保利通よりも、また土佐の坂本竜馬よりも大きな指導力を持って新しい世の中を築き上げたかも知れません。
しかしながら、真木和泉守は、長州軍の実質上の総指揮者としての敗退の責任をとり、かの有名な天王山にて、追ってくる新撰組を壊滅に追いやりながら、17名の門下生と共に割腹したのです。

最近の研究では薩摩藩に残る古文書などから、坂本竜馬は薩摩と長州の間に入り、仲介をしたというよりも、仲介役に使われたという見方をされています。
仲介役と呼ぶには、真木和泉守をおいて他にいないことは、歴史学者の多くの方が認める処です。

真木和泉守の墓は下記の3箇所にあり、久留米水天宮内の真木神社にも祀られています
京都府乙訓郡大山崎町天王山
京都府東山区清閑寺霊山町 京都護国神社
福岡県久留米市山川町 山川招魂社

●紫灘旗高校弓道大会と真木和泉守
紫灘(したん)とは、真木和泉守の号です。
真木和泉守が弓の名人でもあったので、大会の名に紫灘と付けてあるそうです。
余談ですが、競馬に「有馬記念」がありますが、久留米藩主であった「有馬の殿様」を記念した大会です。

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