初の少年愛マンガ
大泉での萩尾望都との共同生活が始まったとき、竹宮惠子が抱えていた大きな仕事は、「週刊少女コミック」での連載『魔女はホットなお年頃』だった。
これは同題のテレビドラマとのタイアップで、1970年9月から、翌年の3月まで23回にわたり連載された。ドラマの企画があり、そのキャラクター設定をもとにして描かれたラブコメだ。タイトルと、人間に化けたキツネの名がコン子という以外は、竹宮が自由に描いていいとの条件で描かれ、ストーリーはテレビとは関係がない。コン子のヌードシーンがあるなど、当時の少女マンガとしては、健康的ではあるが、大胆な性表現をしている。
一方、「別冊少女コミック」1970年12月号には『雪と星と天使と……』を描いた。後に『サンルームにて』と改題される作品で、竹宮によれば〈初めて世に出た「少年愛マンガ」〉だった。もっとも、当時から「少年愛」と謳われていたわけではない。少女雑誌にしては珍しい「美少年を主人公」にしたマンガだった。『風と木の詩』の原型となった作品だ。
竹宮はもともと少年マンガで育っているので、女の子ではなく少年を主人公にした作品が描きたい。そしていつしか、少年同士の「友情」を描きたいと思うようになる。まだ「ボーイズラブ」という言葉などまったく存在しない時代に、この世にない新しいマンガを描きたいと考えていた。それを増山法惠はけしかけていた。革命を起こすのだ、と。
しかし、そんなものを描きたいと言っても却下されるのは目に見えていた。竹宮はあえて、締め切りギリギリになって、少年同士の「微妙な友情」の話を描いて渡した。二人の美少年が主人公だが、ひとりには妹がいて、三角関係の一種となる。まだ「少年と少年」だけの物語にはできず、女の子をひとり入れることで、少女マンガとしての体裁をギリギリ保つ。
それでも、「少女コミック」編集部の山本は、打ち合わせの時の内容と違うと怒ったが、もう描き直す時間はない。そのまま掲載された。竹宮の作戦勝ちだった。
そして三島事件が起き、1970年は終わっていく。
雑誌が発売されてしばらくたって、『雪と星と天使と……』を読んだ二人のマンガ家が、編集部を通じて、竹宮に会いたいと言ってきた。竹宮は喜んで、大泉に招いた。
山岸凉子と、もりたじゅんだった。
山岸は集英社の「りぼんコミック」に1969年5月号からほぼ毎号、短編を描き、さらに「りぼん」にも描くようになっていた。もりたは「りぼん」に描いていた。
山岸は自分も少年愛マンガを描きたいと思っていたが、集英社の雑誌は王道の少女マンガしか描かせてもらえそうになかった。このままでは誰かに先を越されると不安になっていたところ、予想通り、竹宮が描いてしまったので、どんな人なのか気になり、会いたいと思ったのだという。
ここにまたひとり、マンガを変えていこうと考える女性マンガ家が加わった。
山岸と竹宮たちとの交流が始まった。
少女雑誌の創刊が続き、女性マンガ家の絶対数が不足し、何人もがデビューしていた。その多くが読者と年齢の近いハイティーンか20代だ。
しかし、彼女たちを採用する編集者は、まだほとんどが男性だった。出版社が女性を編集者として雇用するのはまだ先だった。
女性マンガ家たちは、自分の父親のような年齢の男性編集者たちと、まず闘わなければならない。編集者たちには、いまどきの女の子が何を求めているのかなど、分からない。こういうのが人気があったという過去の実績でしか、物事の判断ができない。
こんな、訳の分からないおじさんたちの言いなりになっていたら、少女マンガはおしまいだ。
竹宮たちの革命が始まった。
それは最初は孤独な闘いだった。しかし、竹宮と萩尾が一緒に暮らし共闘していると、そこに加わるマンガ家が増えてくる。原稿料値上げという待遇改善運動と、描きたいものを描かせてほしいという芸術面での自由を求める闘争が始まった。
実社会での革命運動が敗北に向かっているなか、「少女マンガに革命を」と真剣に考える一群が生まれた。
『トーマの心臓』への道
「週刊少女コミック」での竹宮惠子は、『魔女はホットなお年頃』が1971年3月に終わると、1号休んで、すぐに『空がすき!』の連載を始めた。10回、続く。パリを舞台にした14歳の少年が主人公のロマンチック・コメディーだ。女の子も出てくるが脇役に過ぎず、少年を主人公にできただけでも、大きな進歩だった。
萩尾望都の「週刊少女コミック」第1作は1月17日・24日合併号の『ベルとマイクのお話』で、以後、「週刊少女コミック」と月刊の「別冊少女コミック」に、次々と短編を描いていく。続いて、月刊の「別冊少女コミック」71年3月号に『雪の子』が載る。
「なかよし」とも完全に縁が切れたわけではなく、4月号と4月増刊号にも作品が載っている。
萩尾望都が「COM」から依頼が来て描いたのが、10月号に掲載された『10月の少女たち』だ。今度は目次はもちろん、表紙にも名前が出ている。この号は少女マンガが特集され、矢代まさこ、上田としこ、まきのむら、あいかわ桂、萩尾望都の5人の作品が掲載され、評論や座談会もある。
竹宮惠子は「週刊少女コミック」に連載し、別冊にときどき描くというペースだが、萩尾望都は「別冊少女コミック」にほぼ毎号、短編を描いていた。
格としては、「週刊」が上で、しかも連載を持っているのだから、竹宮の方が一歩先を行っていた。
11月号に載った萩尾の『11月のギムナジウム』は、後の『トーマの心臓』の原型となる作品だ。前年12月号の竹宮の「初の少年愛マンガ」で、編集部にはすでに少年ものの免疫ができていたのだろうか。
「COM」休刊
「ビッグコミック」や「漫画アクション」など、青年コミック誌が順調に部数を伸ばしているなか、「COM」は低迷していた。新人の作品のページが増えるようになり、マンガ家志望の読者にはいいが、単純に手塚や石森、永島の作品が読みたい読者からすれば、物足りなくなっており、読者が離れていた。
虫プロ商事全体も労働争議が起きるなど、混迷していく。そしてついに、「COM」は1971年12月号をもって、突然、休刊となった。『火の鳥』は「第8部 望郷編」が始まったばかりだった。
その代わりに、虫プロ商事は青年誌の体裁で「COMコミックス」を、1972年1月号を「新年刷新号」として創刊した。一応は「COM」の後継誌で、『火の鳥』の望郷編の第2回が載ったが、手塚治虫はこの雑誌が気に入らないのか、この回で中断した。
12月から隔週刊となり誌名も「COMコミック」と変更し、アダルト路線の雑誌になった。しかし、これも73年2月23日号で休刊となる。
マンガ雑誌がどこも隆盛へ向かうなか、神様・手塚治虫の足元の虫プロ商事は経営危機に陥っていくのだ。
虫プロダクション本体では手塚の路線に反対する勢力が多数派となり、手塚はその時点での債務を引き受けた上、同社の経営から離れていた。
この混乱期に、虫プロ商事に救世主として登場するのが、西崎義展だった。やがてこの救世主によって、虫プロ商事のみならず虫プロダクションも大混乱に陥っていくのだが、その物語はこの稿のテーマではない。概略は拙著『サブカル勃興史』(角川新書)に書いたので、興味のある方はお読みいただきたい。
「COM」休刊はラジカルで実験的・前衛的なマンガの発表の場がなくなったことを意味していた。まだ「ガロ」はあったが、この雑誌も全盛期を過ぎようとしていた。目玉である白土三平の『カムイ伝』が1971年7月号で「第一部 完」となり、以後、載らなくなると部数を落としていった。
「ガロ」が下降し、「COM」が消え、マンガの熱き青春時代は終わろうとしていた。
学生運動とそこから派生した新左翼の革命運動も沈静化していた。
とどめを刺したのが、1972年2月のあさま山荘事件と、それに続いて発覚した連合赤軍のリンチ殺人事件だった。これにより新左翼運動は壊滅的打撃を受け、世論の支持を喪った。
虫プロ商事倒産、手塚治虫の危機
一方、西崎義展が乗り込んできた虫プロ商事は、拡大路線に転じ、1973年4月、休刊していた「ファニー」を、「月刊ファニー」として復刊し、7月には「COM」も8月号で復刊した。手塚治虫は『火の鳥』を、中断した「第8部 望郷篇」はそのままにし、新たに「第9部 乱世編」描き始めた。
ところが、「月刊ファニー」は9月号までの5号で、再刊した「COM」は8月号だけで終わる。8月22日に、虫プロ商事は倒産したのである。
かくして、「COM」は完全に息の根を止められた。復刊してからは1号しか出なかったので、実質的には、1967年1月号から71年12月号までの5年間の雑誌だった。
1960年代末から、手塚治虫はマンガ家としてもヒット作が出なくなり、「手塚はもう終わった」と言う者も多かった。
そんなところに、虫プロ商事が倒産し、ますます「手塚は終わった」感が強まった。
「虫プロ」という名の付いた会社の倒産で、虫プロダクションも危ないとの噂が流れた。実際、虫プロダクションは手塚が経営から離れた後は、ますます経営が悪化し、危機に陥っていた。9月までは手塚原作の『ワンサくん』があったが、その次のテレビアニメは受注できなくなっており、11月に倒産した。
手塚マンガに影響を受け、「COM」で発表の場を得た若い女性マンガ家たちの才能が開花したとき、「COM」は終焉し、手塚治虫は凋落しかけていた。
だが、この巨匠は復活する。
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