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定朝(読み)じょうちょう

  • ?―1057
  • じょうちょう ヂャウテウ
  • じょうちょう〔ヂヤウテウ〕
  • 定朝 じょうちょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]?
[没]天喜5(1057).8.1.
平安時代中期最大の仏師康尚の子または弟子寛仁4 (1020) 年康尚とともに法成寺無量寿院の丈六『阿弥陀像』9体を造立したのをはじめ,万寿3 (26) 年中宮の安産祈祷のために釈迦三尊など 27仏を,翌年法成寺釈迦堂の百体釈迦像,長元9 (36) 年後一条天皇の法事の三尊仏,長久1 (40) 年後朱雀天皇の念持仏天喜1 (53) 年唯一の遺品である平等院鳳凰堂の『阿弥陀如来像』などを造立した。この間,治安2 (22) 年法成寺造仏の賞として法橋に叙せられ,仏師が僧綱位を得た初例となり,仏師の社会的地位を向上させた。また永承3 (48) 年には興福寺の諸仏造立ので法眼となる。寄木造の完成者,和様彫刻の大成者,また世襲仏所組織の確立者として後世大仏師のと仰がれ,彫刻史上高く評価される。

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デジタル大辞泉の解説

[?~1057]平安中期の仏師。康尚の子。法成寺の造仏の功により、仏師として初めて法橋(ほっきょう)に叙せられ、のち法眼(ほうげん)にまで進んだ。その優美な様式定朝様または和様とよばれ、長く日本の仏像彫刻規範とされた。寄木(よせぎ)造り技法を大成。天喜元年(1053)作の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像が残る。

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百科事典マイペディアの解説

平安中期の仏師。康尚の子。1020年―1054年ころにかけて藤原道長法成寺,藤原氏の氏寺である興福寺藤原頼通平等院等の造営に従事,その功績で1022年仏師として初めて法橋に,1048年法眼に叙せられた。その間多くの仏像を制作したが,平等院の阿弥陀像は唯一の確実な遺品で,その円満な表情と優美な姿は日本の仏像彫刻様式の完成をみせ,定朝様と呼ばれる。また彼によって木仏師の社会的地も高まり,仏師の協同組織(のちの仏所)をつくったことが仏師の繁栄の基礎となったので,後世仏師の祖と仰がれた。
→関連項目院覚院派運慶円派慶派康尚浄土教美術奈良仏師仏師寄木造

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

?-1057  平安時代中期の仏師。
康尚(こうしょう)の子。寄木造(よせぎづくり)の完成者。法成寺(ほうじょうじ)諸堂の造仏で治安(じあん)2年仏師としてはじめて法橋(ほっきょう)をさずけられ,興福寺の造仏で法眼(ほうげん)にすすんだ。作風は定朝様(和様)とよばれる。作品に宇治平等院鳳凰(ほうおう)堂の阿弥陀如来像(国宝)。天喜(てんぎ)5年8月1日死去。

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朝日日本歴史人物事典の解説

没年:天喜5.8.1(1057.9.2)
生年:生年不詳
平安中期の仏師。康尚の子または弟子と伝えられる。定朝の名が記録に初めてみえるのは,寛仁4(1020)年2月,藤原道長の発願による法成寺無量寿院阿弥陀堂の丈六九体阿弥陀像を康尚の指導のもとに造ったときである。治安2(1022)年7月には,同じく道長が発願した法成寺金堂並びに五大堂の造仏で仏師として初めて法橋に叙され,以後の仏師の社会的地位の向上をうながした。また同年6月から始まる同寺薬師堂の造仏にたずさわり,翌年12月に完成。さらに万寿3(1026)年には,道長の娘中宮威子の御産祈祷のため等身仏像27体の造立をおこなうが,このとき,21人の大仏師と105人の小仏師を率いて事に当たった。そのほか長元9(1036)年4月には後一条天皇死去に際して三尊仏を,また長久1(1040)年5月には後朱雀天皇の念持仏として1尺ほどの銀製薬師如来像をそれぞれ造り,翌年2月には花宴に浮かべる竜頭鷁首船の竜頭の制作にもたずさわっている。永承1(1046)年に焼失した興福寺諸堂および諸像再建のために,翌年から同寺仏像の修理造像に当たり,同3年にはその造仏により法眼に叙された。 現存する作品としては,天喜1(1053)年に完成した宇治平等院鳳凰堂の本尊丈六阿弥陀如来像があげられる。鳳凰堂は藤原頼通が別荘の地を寺としたもので,本尊の阿弥陀如来像は,定朝晩年の円熟した境地を示す,平安後期,藤原様式の最高傑作とたたえられる。像の本体は,奥行きこそさほどないが,全体にバランスが良くとれた自然なプロポーションを示し,頬のまるい顔立ちをはじめ,胸や腹など各部の表現も,ほのかな抑揚を基調としてあくまで穏やかにまとめられている。その馥郁たるさまは,金色の輝きとともに,史料的には同じく定朝晩年の作と知られる西院邦恒堂(1054頃)の本尊について,「尊容満月のごとし」と形容する『春記』(藤原資房の日記)の記載と同一の情趣と思われ,のちの仏師が「仏の本様(手本)」として継承した様式の具体例とみなされる。このことは仏像本体にとどまらず,華麗な透彫りに飛天を配した光背(飛天光)や,反花などに宝相華を浮彫りする九重の蓮華座,やはり宝相華を透彫りする天蓋を含めて,いずれも天才定朝の創意にゆだねられ,定朝様式とはこのような像の周囲の荘厳をも配慮した総合芸術とみなされる。 一方,定朝は従来の一木造から,部分ごとに数材の木を寄せて像身を組み立てる「寄木造」の完成者としても知られ,以後の仏師の分業による造像を可能とするとともに,さらに仏師相互の専門的集団組織としての仏所を確立し,大仏師,小仏師などの制度を整備した。定朝以後,仏師の世襲および流派がしだいに定まり,その子覚助七条仏所を率い,他方,高弟の長勢三条仏所を開いて,院政期の院派や円派,さらには奈良仏師などの分立へとつながってゆく。なお,平等院鳳凰堂の壁面を飾る雲中供養菩薩と屋根の2体の鳳凰(金銅製。羽根は銅板鍍金)も,定朝とその弟子たちの手になるものである。<参考文献>毛利久「康尚と定朝」(『日本仏教彫刻史の研究』),小林剛「大仏師定朝」(『日本彫刻作家研究』),水野敬三郎「大仏師定朝」(『日本の美術』164号),田中嗣人「定朝と定朝様式」(『日本古代仏師の研究』),西川新次編『平等院大観』2巻(彫刻)

(浅井和春)

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世界大百科事典 第2版の解説

?‐1057(天喜5)
平安中期,11世紀前半に活躍した仏師。日本彫刻史上屈指の名匠といわれる。仏師僧康尚(こうじよう)の子と考えられ,1020年(寛仁4)康尚とともに藤原道長発願の無量寿院(のちの法成寺阿弥陀堂)の9体の丈六阿弥陀像をつくったのをはじめ,宮廷や藤原一門などの造仏に多くたずさわった。22年(治安2)法成寺造仏の功によって,仏師としてはじめて僧綱位の法橋に叙され,48年(永承3)には興福寺造仏の賞として法眼に進んでいる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平安中期の仏師。日本彫刻史上屈指の名工とうたわれている。仏師僧康尚(こうしょう)の子で、1020年(寛仁4)父とともに藤原道長発願の無量寿院(後の法成寺(ほうじょうじ)阿弥陀堂(あみだどう))の9体の丈六阿弥陀像をつくったのをはじめ、皇室や藤原一門などの造仏に多く携わり、22年(治安2)法成寺の16体の造仏の功により、仏師として初めて僧綱位(そうごうい)の法橋(ほっきょう)に叙せられ、48年(永承3)には興福寺造仏の賞として法眼(ほうげん)に進んでいる。その間、中宮威子(いし)御産祈祷(きとう)のための27躯(く)の等身仏像(1026)、後一条(ごいちじょう)天皇仏事の御仏3体(1036)、後朱雀(ごすざく)天皇念持の一尺銀薬師像(1040)など、非常に多くの造仏にあたり、53年(天喜1)には宇治平等院鳳凰堂(ほうおうどう)本尊阿弥陀如来(にょらい)坐像を藤原頼通(よりみち)のためにつくったが、これが定朝唯一の確実な現存作品である。だが当時定朝の最高傑作と評されたのは54年ごろの西院邦恒(くにつね)堂の阿弥陀如来像といわれ、のちに仏師院覚と院朝が造仏の規範であるとして、その寸法を詳しく測定したことが『長秋記』にみえる。

 鳳凰堂の阿弥陀如来像によって知られる彼の作風は、浄土教を信奉する当時の精神を的確に表現したもので、天平(てんぴょう)の古典彫刻にのっとって、10世紀ごろからしだいに表れてきた単純化と優しさをいっそう推し進め、顔は丸く、いわゆる円満具足の相をもち、膝(ひざ)は広く低く安定し、流麗な衣文(えもん)線も浅く平行に走るという、日本的に純化された、いわゆる和様と称される様式を完成している。以後この様式は定朝様とよばれて長く日本の彫刻の規範とされた。そのほか、従来の一木造(いちぼくづくり)と違って、いくつかの木を寄せてつくる寄木造(よせぎづくり)の完成者ともいわれている。また専門仏師として独立したのは彼の父康尚が最初のようだが、仏師の分業的活動を整備し、仏所の組織を確立したのは定朝であり、たとえば大仏師、小仏師の制が定められたのも彼によると考えられている。彼以後、仏師の世襲の風潮と流派とが定まってゆき、平安後期から鎌倉時代にかけて活躍した仏所は、すべて定朝の子覚助、弟子長勢から出たとして、定朝を祖と仰いでいる。

[佐藤昭夫]

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精選版 日本国語大辞典の解説

平安中期の仏師。仏師康尚の子。流麗ないわゆる和様(定朝様)と称される仏像彫刻様式の完成者。また、仏所の組織機構を確立し、のちの仏師の世襲と流派が生じるもとになった。仏師で僧綱の位についた最初の人。唯一の現存する作品として、平等院鳳凰堂の本尊阿彌陀如来坐像がある。天喜五年(一〇五七)没。

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

?〜1057
平安中期の仏師
康尚 (こうしよう) の子。法成寺造仏の功により,法橋(僧位一種)となった。寄木造を完成し,多くの弟子をもって仏像を彫らせた。作風は比率のととのった純和様で定朝様と呼ばれ,のち長く日本彫刻の規範となった。代表作に平等院鳳凰堂の『阿弥陀如来像』。

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世界大百科事典内の定朝の言及

【平安時代美術】より

…膝の部分は後補であるが,上体のバランスがよく,気品のある忿怒相は,まさにこの時代の中央での作風を示すもので,康尚の作に比定されている。彼は20年(寛仁4)道長発願の法成寺(ほうじようじ)無量寿院丈六九体阿弥陀像造顕に子息定朝とともにたずさわるが,これより康尚の地盤は定朝に引きつがれ,定朝はやがて仏師としてはじめて僧綱位を受け,寄木造の完成や仏所の組織化が彼の功績に数えられ,彼の作品は〈仏の本様〉と称され,後世の規範とされたのである。彼の現存唯一の作品である平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は,まさにそのことを証する傑作である。…

【木彫】より

…このように像の頭体幹部を,中心となる1材からではなく,複数の材から作る技法を寄木造という。 この一木造から寄木造への移行は,木彫技法の展開上画期的なものであり,1053年(天喜1)の定朝作京都平等院阿弥陀如来座像(像高279cm)に,寄木造の完成した技法が示されている。この像は,頭体幹部を上から見たときに〈田〉の字形になるように4材を矧ぎ寄せて作り,背面の2材は頸回りで一度割り放った後に再び矧ぎ寄せている。…

※「定朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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