▼県北の交通史
1)県北の街道と陸運

県北の脇街道

 全国的な基幹道である徳川幕府が定めた「五街道」(東海道・中仙道・甲州街道・日光街道・奥州街道)から見れば羽州街道も脇街道だが、羽州街道から更に幾筋かの脇街道が枝分かれしていた。県北に関わるものとしては、鹿角、阿仁、大間越、来満、男鹿、五城目などの諸街道がある。
 鹿角街道は田代町早口から花輪を通り盛岡までを結ぶ重要な街道で、一時期は尾去沢の銅を盛岡〜北上川舟運により石巻(宮城県)から海上を大阪に運ぶ「銅の道」でもあった。
 阿仁街道は角館から桧木内(西木村)〜大覚野峠〜阿仁鉱山町〜米内沢を経て羽州街道の小繋と坊沢(鷹巣町)に至る道で、仙北の米や物資を阿仁鉱山に陸送するルートとして整備された。
 大間越街道は金光寺で羽州街道と分かれ能代に至る能代道と、能代から海沿いに津軽弘前に向かう八森街道を合わせたもので、街道名は明治時代につけられたものである。
 おなじく明治期に命名された来満街道は鹿角と三戸(青森県)とを結んだ南部領の道で、野辺地湊(青森県)への尾去沢銅の陸送、南部藩主の領内視察、幕府巡見使の道という性格をもっていた。
 男鹿街道は金足追分(秋田市)で羽州街道と分かれ、男鹿半島の各集落を結んでいた。能代から八郎潟西岸(若美町)を経て船越(男鹿市)に南下する道も、能代側からは行き先を指して男鹿街道と呼んだ。
 五城目街道は羽州街道の一日市、五城目と上小阿仁村沖田面、合川の木戸石を結ぶ山中を通る道で、物資輸送よりは地域住民の生活道路の色合いが強かった。



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