国際連合カンボジア暫定統治機構

国際連合カンボジア暫定統治機構
United Nations Transitional Authority in Cambodia (英語)
អាជ្ញាធរអន្តរកាលសហប្រជាជាតិនៅកម្ពុជា
(クメール語)
カンプチア人民共和国 1992年 - 1993年 カンボジア
カンボジアの国旗 カンボジアの国章
国旗 国章
カンボジアの位置
公用語 クメール語
国連公用語
首都 プノンペン
国際連合事務総長特別代表
1992年 - 1993年 明石康
変遷
パリ和平協定調印 1991年10月23日
UNTAC活動開始 1992年2月28日
国民議会選挙 1993年5月28日
カンボジア王国再建
UNTAC活動終了
1993年9月24日

国際連合カンボジア暫定統治機構(こくさいれんごうカンボジアざんていとうちきこう、英語: United Nations Transitional Authority in Cambodiaクメール語: អាជ្ញាធរអន្តរកាលសហប្រជាជាតិនៅកម្ពុជា)は、かつて存在したカンボジアの統治組織。国際連合(国連)の平和維持活動(PKO)機関。略称はUNTAC(アンタック)。国連カンボジア暫定機構とも。

  国際連合カンボジア暫定統治機構
 
概要 国際連合平和維持活動
選挙の管理・運営、停戦の監視、治安維持、武装解除、避難民の帰還促進
略称 UNTAC
代表 明石康(事務総長特別代表)
状況 活動終了
決議 安保理決議745
活動開始 1992年2月28日
活動終了 1993年9月24日
本部 プノンペン
活動地域 カンボジア
規模 2万2000人(文民・軍人合計)
要員派遣国 45ヶ国
犠牲者数 82名
費用 16億2000万 ドル
公式サイト UNTAC

紛争 カンボジア内戦
前身/継承 国連カンボジア先遣隊

概要 編集

1991年10月23日に調印されたカンボジア内戦の終結をもたらした「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ和平協定)にもとづき、当時の事実上の政府であるカンボジア国との合意に基づき、1992年2月28日の国際連合安全保障理事会決議745により国際連合事務総長の下に設立された。UNTACの国連事務総長特別代表には、国連事務次長だった日本明石康が就いた。統治期間は、自由で公正な選挙で選ばれた議会が憲法を制定し政府を設立するまでの間と決められた。

国連は1991年10月にすでに決議717により国際連合カンボジア先遣隊 (UNAMIC) を設立しており、現地の先遣調査にあたっていた。UNTACの任務はこれを拡大し、選挙の組織・管理を初めとして、停戦の監視、治安の維持、武装勢力武装解除難民避難民の帰還促進など、多岐にわたった。UNTACは3月15日より現地展開・実働を開始し、UNAMICはこれに改編・吸収された。カンボジア国の民兵を効果的に武装解除した一方で、クメール・ルージュの武装解除には失敗した。これにより、クメール・ルージュは領土を獲得し、政治的暴動を勃発させた。カンボジア国の軍事指導者らは、カンボジア人民軍(CPAF)の武装解除はとても厳格であったが、クメール・ルージュに関しては寛大過ぎた余り、効果が無かったと主張する。

UNTACは7部門からなっていた。軍事部門は、オーストラリアジョン・サンダーソン英語版少将が司令官に就き、32ヶ国から1万6000名が派遣されるという、過去にない大規模な人員を擁した。そのほかには、文民行政部門、文民警察部門、選挙部門、人権部門、帰還部門、復興部門があった。

1993年5月にUNTAC監視の下、憲法を制定するための国民議会選挙が行なわれフンシンペックが第一党となった。9月23日に新憲法が公布され、翌9月24日にはノロドム・シハヌークが国王として復位してカンボジア王国が再建された。これに伴いUNTACは同日付けで任務を終了、同年末までに人員・機材は撤収された。

UNTACは、自衛隊にとっては初のPKOとなり、ペルシャ湾派遣以来2度目の海外派遣となった。第1次として1992年9月から1993年3月まで、第2次として1993年3月から9月まで、停戦監視要員8名とカンボジア派遣施設大隊600名が参加した(→ 詳細は「自衛隊カンボジア派遣」項を参照)。自衛官以外では、文民警察要員として1992年10月から1993年7月に警察官75名が、選挙要員として1993年5月23日から28日に国家公務員5名、地方公務員13名、民間人23名の計41名が派遣された。このカンボジアPKO全体で、日本人からは中田厚仁国連ボランティア  (United Nations Volunteers高田晴行警部補の2人の殉職者が出た。

また、カンボジア内戦に関わった中国にとっても初めて本格的に参加したPKOであり、中国人民解放軍から軍事監視要員と工兵部隊470名が派遣された[1]

脚注 編集

  1. ^ 松田康博「第12章 中国の国連 PKO政策──積極参与政策に転換した要因の分析」添谷芳秀編『現代中国外交の六十年─ ─変化と持続』慶應義塾大学出版会,2011年,285-287頁

関連項目 編集

外部リンク 編集