信長の時代のように甘く考えれば処罰も辞さず-。「龍野神社旧蔵文書」から見つかり、21日、たつの市立龍野歴史文化資料館(兵庫県)などが発表した羽柴(豊臣)秀吉による家臣脇坂安治(やすはる)宛ての33通の書状。天下取りを目指す精力的な進攻を記す一方で、家臣の動きの細部に目を配るなど、厳格な統治者としての一面がうかがえる。
1584年の小牧・長久手の戦いに関する書状では、徳川方から織田信雄(信長の次男)の娘、家康の長男と弟らを人質に出す和睦案が出されたが、秀吉は一度は拒絶したと記述。後に受け入れたとの書状もあり、調査した村井祐樹・東大史料編纂(へんさん)所助教は「(この時期を)詳細な情報によって時系列で追える意味は大きい」と解説する。
翌年の書状では、秀吉が追放した家臣をかくまわないように指示する。「秀吉の御意に違う候輩(ともがら)、信長の時の如く少々拘(かか)え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事(くせごと)たるべく候(秀吉の意思に背く者ども、信長の時代のようにかくまっても許されると思い込んでいると処分する)」
主君だった信長を呼び捨てにし、自らの権勢を厳格に示した。
材木調達を任されながら、北国攻めに加わりたいと懇願する安治に対しては何度も叱った。だがその半面、淡路洲本藩(洲本市など)の藩主や瀬戸内海の水運を担わせるなど、一貫して重用する。村井助教は「硬軟使い分けた秀吉の手腕がよく分かる」と指摘する。
他の書状には、大坂城築城に使う石を淡路島から運ぶよう安治に指示したり、1592年に安治が朝鮮出兵に加わった際に戦功をたたえ、戦況を報告するよう求めたりする文面もあった。(松本茂祥)
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