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原爆慰霊碑碑文論争 年表ヒロシマより

原爆慰霊碑の建立まで
51/2/21 平和記念公園に戦災死亡者の碑の建立決定。原爆死亡者の名簿をおさめることなど計画。
52/7/22 碑文決定 「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」広島大学教養学部 雑賀忠義教授「言葉も書体も市民感情を表すように努めた」
52/8/2 浜井市長「原爆慰霊碑分の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と市会で答弁
52/8/4 原爆犠牲者の氏名、死亡年月日、年令をいろは順に記した原爆死没者名簿15冊(過去帳)とそれを奉納するみかげ石の奉納箱(石棺)完成
52/8/6 被爆7周年を期して慰霊祭挙行。この日原爆慰霊碑(正式名は「広島平和都市記念碑」除幕。57902名の名簿奉納。本来設計では慰霊碑をすかしてドームまで見通せるはずが、被爆者のバラックが透かして見通せた。バラック隠しの幕を張って除幕挙行。
論争第1期 除幕以降提出されていた碑文への疑問は ラダ・ビノード・パル判事の発言をきっかけに碑文論争へと発展。雑賀教授の「過ちを繰替えさぬという主体は日本人のみならず全ての人の誓い」との説明で一応決着したかに見えたが、、
52/8/24 「過ちは繰返しませぬから」をめぐり前田栄之助広島女子短大教授が妥当とする論を中国新聞に掲載。
52/11/3 ラダ・ビノード・パル判事が碑文に疑問表明。「『過ちは繰返しませぬから』とあるのは日本人を指しているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭。落としたものの手はまだ清められていない。この過ちとは、もしも前の戦争を指しているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である。・・・」
52/11/10 雑賀忠義広大教授がパル判事に抗議文を。「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。」
56/2/4 日教組第5次教育全国集会に招かれたセン書記長(インド)原爆資料収集のため来広「繰返しませぬではなく繰返させませんと叫ぶべきだ」と強調
66/2/23 原爆慰霊碑と峠三吉詩碑が赤い泥絵具で塗りつぶされる 。このことにつき、 1964ソ連カムチャッカで「ヒロシマ写真展」を開いたE・ホバトコフさんから怒りの声が資料館に寄せられる。 (66/5/7)
70年代 論争第2期 被爆25周年を前に碑文論争再燃。
70/2/11 「原爆慰霊碑を正す会」(以下、「正す会」)発足。岩田幸雄会長。碑文は屈辱的で20数万人の犠牲者の霊を冒涜しているとして抹消を求める。10万人署名運動展開へ
70/2/12 安保破棄諸要求貫徹広島県実行委員会が碑文変更に反対の申し入れ。
70/2/20 広島県被爆教師の会の石田明会長らが山田市長に碑文変更反対の要望書てわたす。市長「碑文変更の申し入れを受けていないので態度を表明する段階ではないが、私自身も碑文は全人類の願いを表したものと思っている」
70/2/21 広島県原水禁「碑文は人類全体の願いと誓いを込めた決意を表明したもの」との声明を発し、21日森滝市郎理事長らが市長に要望書を手渡す。
70/3/9 「正す会」が山田市長と浅尾義光市議会議長に碑文抹消を請願。「1万人以上の賛同署名を集めた。さらに署名を増やす」と
70/3/13 「原爆慰霊碑の碑文を守る連絡会議」結成。社会、共産両党系の団体と市民グループなど15団体が共闘。「碑文抹消運動は核アレルギーの解消、軍国主義復活を目指す策謀で許せない。碑文は絶対に守り抜く」
70/3/17 山田広島市長が「原爆慰霊碑の碑文を守る連絡会議」の要請に「個人としては碑文を変えるべきではない」と発言
70/8/3 山田広島市長が記者会見「碑文は変えない」と表明。「碑文の主語は世界人類であり、人類全体への警告、戒めである」
71/7月 「正す会」が「原爆慰霊碑の碑文をすぐに抹消し、碑を立て直すべきだ」との請願書を市長と市会議長へ提出へ。
76/7/20 「正す会」に荒木武広島市長の名前があり、広島県原水禁が公開質問状。正す会は児玉誉士夫氏が顧問。賀屋興宣、源田実、池田弥三郎等も。
76/8/3 荒木武広島市長が「正す会」の相談役に名を連ねている問題で「正す会が自主的に私の名をはずすといってきたので、こちらから除去を申し入れはしない。被爆都市の市長として碑文の意味を広島の心として、平和推進に努力する」
76/8/6 小堺吉光広島市史編纂室長「原爆慰霊碑 碑文の陰に」と題して碑文決定のいきさつを紹介。碑文の雑賀教授の英文訳は「Let all the souls here in peace ; For we shall not repeat the evil」だったが英訳は記載されなかった。
80年代 碑文の真意を伝えるために
83/4月 広島市は碑文の真意を伝えるために日本語と英語の説明板設置を決定。
83/8/9 今井隆吉軍縮大使がジュネーブ軍縮委員会で碑文に対し「核戦争をあくまで回避しなくてはならないという決意」との解釈を示す。
83/9/26 広島市が慰霊碑に取り付ける日英両文の説明板内容を公開。「碑文は全ての人びとが原爆犠牲者のめい福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」。説明文のタイトルは「原爆慰霊碑」でなく正式名の「広島平和都市記念碑」。訴える力が弱いのではと疑問。
83/11/3 広島市が慰霊碑のそばに日英両文の説明板設置。市民の要望で正式名の「広島平和都市記念碑」に「原爆死没者慰霊碑」を付記した。碑文論争に一つの区切りとなった。

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